北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

霊山神社に参拝してきた件〜花将軍・北畠顕家を偲んで

今回は久しぶりに「太平記」関連じゃ。ユアスタ遠征の帰路、福島県は霊山町にある霊山神社に行ってきた。霊山神社の御祭神は、後藤久美子さんが演じた南北朝の美少年、花将軍こと北畠顕家じゃよ。

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なお、霊山城を攻めたときのブログはこちら。

霊山神社へのアクセス

北方謙三さんの『破軍の星』を読んでから、一度は霊山を訪れたいと思って幾年月。なかなかチャンスがなかった。じつは昨年、ユアスタに遠征したとき、思い切って立ち寄ることを計画したのじゃが、とにかくここは公共交通機関によるアクセスが絶望的。福島市内からバスで旧掛田駅バス停下車よりタクシー、または阿武隈急行の保原駅からタクシーで20分。帰りの足の確保も考えると、これはクルマじゃないとどうにもならない。

ということで、今回はクルマで行くこととし、ユアスタ遠征の帰路に立ち寄ることができた。東北自動車道の国見ICから約30分、 迷うことなく到着した。 霊山神社の駐車場にクルマを止めると、北畠顕家さんがにっこりお出迎え。「太平記」好きなら、それだけで感無量かもしれぬな。

ちなみに、わが息子・北条時行は顕家の軍に入ってお世話になっておるので、丁重にご挨拶をして、本殿へ向かうことにする。

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霊山神社の創建について

霊山神社は福島県伊達市霊山町大石字古屋舘に鎮座する、建武中興十五社の一社。創建は明治14年(1881)で、北畠親房、顕家、顕信、守親を祀っている。

霊山は平安時代初期、天台宗の慈覚大師円仁が開山したと伝えられている。山岳修験の山として栄えていたが、南北朝の騒乱の中、多賀国府を追われた鎮守府将軍・北畠顕家は、この地に霊山城を築城する。顕家はここに義良親王をお迎えして陸奥国府を遷し、南朝方の一大拠点として奥州を統括したのじゃ。

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顕家は奥州兵を率いて上洛し、足利尊氏を散々に悩ませた。1度目の上洛戦では尊氏を九州へ追いおとすことに成功している。じゃが、2度目の上洛戦では奮戦虚しく石津の戦いで討死している。霊山城も正平2年/貞和2年(1374)には、北朝方の奥州管領・吉良貞家に攻められて落城し、その後は廃城となってしまう。

じゃが、文化年間には、白河藩主松平定信は現在の日枝神社境内に霊山碑を建立し、顕家の顕彰に努めている。そして明治元年、米沢藩の儒者・中山雪堂と医師・西尾元詢は南朝の忠臣を祀るべく神社の創建に動き出す。明治天皇が東北巡幸した折に鎮座地が決定され、明治13年、社殿が造営された。旧社格は別格官幣社で、旧会津藩筆頭家老・西郷頼母が神官をつとめたこともあったそうじゃ。

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春の例大祭では、濫觴の舞が奉納される。これは北畠顕家が霊山に入城したとき、一族郎党の家運隆盛、武運長久を祈って「陸王」の舞を奉納したことにちなんだものだそうじゃ。

境内には紅葉の木がたくさんあったが、これらは京都の嵐山から移植されたと伝えられている。ここはやはり、秋に訪れるのがベストじゃろうな。境内を埋める紅葉の鮮やかな色彩を、わしも一度は見てみたいものじゃ。

北畠顕家は美少年?

北畠顕家は「花将軍」と呼ばれる。文保2年の生まれで、父は『神皇正統記』を著した准三后北畠親房じゃ。顕家は3歳で叙爵され、若くしてさまざまな官職を歴任し、12歳までに従三位参議・左近衛中将となっている。これは血筋もさることながら、その才覚を期待されてのことじゃろう。

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おまけに顕家は「美少年」だったといわれている。じっさい、『増鏡』や『舞御覧記』には、それらしい逸話が記されている。その後の顕家の活躍や、若くして散華した悲劇的な生涯は、「美少年」のイメージをさらに強くしているのかもしれぬな。

元弘元年(1333)、後醍醐天皇が北山第での花の御宴に行幸した際、当時14歳の顕家もこれに供した。このとき顕家は「陵王」を舞ったが、その時の様子を『増鏡』はこう記している。

暮れかかる程、花の木の間に夕日花やかにうつろひて、山の鳥の声惜しまぬ程に、陵王の輝きて出でたるは、えも言はず面白し。其の程、上も御引直衣にて、倚子に著かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より異に雲井をひびかす様也。

宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二藍の衣なり。左の肩にかけていささか一曲舞ひてまかでぬ。右の大臣大鼓打ち給ふ。其の後、源中納言具行採桑老を舞ふ。これも紅のうちたる、かづけ給ふ。

このとき、後醍醐帝は自ら笛を吹き、前関白・二条道平は自分の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという。

また『舞御覧記』は顕家について、「この陵王の宰相中将君は。この比世におしみきこえ給ふ入道大納言の御子ぞかし。形もいたいけしてけなりげに見え給に」、つまり、幼くてかわいらしく、それでいて堂々とした顕家の態度を記録している。

後醍醐天皇はこうしたことから、顕家を「花陵王」と呼んだらしい。

ちなみに、大河ドラマ「太平記」では、当時、国民的美少女と言われた後藤久美子さんが顕家を演じている。イメージとしてはぴったりかもしれぬな。

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北畠顕家の上奏文

まあ、美少年であったかどうかはともかく、顕家が文武両道の優れた人物であったことは確かじゃ。若年ながらも奥州の結城、伊達といった諸勢力を従わせるほどの政治手腕があり、公家でありながらも足利尊氏を追い詰めたんじゃからな。

何より、顕家の評価を高めるのは、後醍醐帝を諌めた諫奏文『顕家諫奏文』じゃろう。これは彼の死の一週間前に書かれたもので、結果として建武政権への遺言となった。

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顕家は、七ヶ条に渡って政治のあり方を述べている。いずれも痛いところをついた、厳しい指摘じゃ。

1) 速やかに人を選び九州、東北に派遣せよ、さらに山陽、北陸にも同様に人をおいて反乱に備えよ。
2)諸国の租税を3年免じ、倹約すること。土木を止め、奢侈を絶てば反乱はおのずから治まるであろう。
3)官爵の登用を慎重に行うこと。功績があっても身分のないものには土地を与えるべきで官爵を与えるべきではない。
4)恩賞は公平にすべきこと。
5)貴族や僧侶には国衙領・荘園を与え、武士には地頭職を与えるべきである。臨時の行幸及び宴会はやめるべきである。
6)法令は厳粛に実行せよ。法の運用は国を治める基本であり、朝令暮改の混乱した状態は許されない。
7)政治に有害無益な者を除くべきである。貴族、女官及び僧侶の中に、重要な政務を私利私欲によりむしばんでいる者が多く、政治の混乱を招いている。

以上、Wikipediaからの引用じゃが、奥州経営にあたる顕家の目には、建武政権の腐敗とでたらめぶりがよーく見えておったんじゃろう。これぞ顕家の凄味、真骨頂と言えるじゃろう。

それにしても、北畠顕家ほど「貴公子」という言葉が似合う人物は、日本史上でもそうはいない。