北条高時blog 闘犬乱舞。

うつつなき太守による歴ヲタの備忘録です

北畠顕家と義良親王を偲んで、絶景の霊山城に登ってきた

ちょっと間が空いてしまったが、霊山に登ってきたときのこと。霊山はご存知のとおり、南北朝時代北畠顕家が義良親王を奉じて陸奥国府を置き、奥州における南朝の一大拠点となったところじゃよ。

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わしの歴ヲタ活動は文献中心のインドアへたれじゃ。とはいえ、時に山に登ったり、藪に分け入ったりを余儀なくされることもある。クマ出没とか、マムシ生息、スズメバチ注意……そんなガグブルな看板には一瞬ひるむものの、なんだかんだで衝動的のまま進んでいく。

ただし、準備はテキトーというか、行き当たりばったり。今回も、なんとも場違いな服装で来てしまったが、さりとて今さら引き返すことはできない。幸い、霊山は登山道も案内板も整備されておる。歩きやすいし、初心者やファミリー向けなので、お気楽な歴ヲタでも安心して登ることができたぞ。

ちなみに、わしが登ったのは、登山口〜鍛冶小屋岩〜宝寿台〜日暮岩入り口〜国司沢〜天狗の相撲場〜護摩壇〜国司館・霊山城跡の最短ルート。へたれゆえ、最初は少々しんどかったが、なかなかの絶景を拝むことができたし、それほど苦にはならなかった。

この大パノラマを顕家や義良親王はどんな思いで眺めていたんじゃろうか、などと考えながら歩いてゆけば、歴史ロマンを満喫できること請け合いじゃよ。

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北畠顕家の霊山入城 

霊山は阿武隈高地北部に位置する玄武岩の溶岩台地。伝えによれば、山寺は貞観年間に慈覚大師円仁が開山したという。天竺の霊鷲山に擬して霊山と名付け、山王の社を勧請した。

古くは修験道の山として知られ、山中には護摩檀跡などの名残が残っている。現在では紅葉と歴史の山として国の史跡名勝でもあり、県立自然公園となっておる。

そんな霊山に北畠顕家国府を移したのは延元2/建武4(1337)正月8日のこと。「保暦間記」にはこう記されている。

国々起こりて所々に合戦有。同四年の春の比、奥州にも尊氏に心ざしあるもの有りて、合戦ありしが、あき家卿打負て落、東国だての郡りやぅぜんと云ふ寺に籠給ひけり。

顕家は奥州軍を率いて京に攻めのぼり、一時は足利尊氏を九州へ追い落とした。奥州に帰任途上には相馬氏の小高城を屠り、宮方は勢いを取り戻したかにみえた。

じゃが、九州で足利尊氏が復活し、湊川の戦いに勝利したことが伝わると、奥州の宮方は再び乱れた。武家は所領を守るために強い方につく。顕家は悔しかったじゃろうが、これは道理でいたしかたない。

けっきょく、武家方の隆起により多賀国府は窮地に陥る。やむなく顕家は義良親王を奉じて霊山に退き、ここに国府を移したのじゃ。

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霊山は自然の要害をなし、山道と海道を扼する要衝の地。しかも顕家が入った頃、霊山寺には大規模な僧坊が組織されていた。延暦寺の末寺として僧兵も抱えており、顕家はその軍事力を頼みにたのじゃろう。

何よりこのあたりは、顕家の臣・伊達行朝の領内じゃった。白河には結城宗広がおるし、連携はとりやすい。顕家は霊山を拠点に磐城、岩代、さらには常陸、下野まで兵を展開し、宮方勢力の拡大を図り、鎌倉を圧迫しようと考えてたのではないじゃろうか。

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800mほど登ってくると、国司館跡に到着する。ただし、特に何かがあるわけではなく、白木の案内板が立っているのみじゃ。かつては六間四面の建物があり、それをうかがわせる礎石もあるらしいが、この日は夏草がぼうぼうで、残念ながら発見できなかった。

国司館跡を少し上がると義良親王の石碑があった。義良親王は後の後村上天皇で、父は後醍醐天皇、母は阿野廉子。義良親王が顕家に奉じられて奥州に赴任したのははわずか9歳の時のこと。遥かに京を思い、心細い思いをしておった義良親王にとって、顕家は臣でありながら、兄のような存在であったのかもしれぬな。

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北畠顕家、2度目の上洛戦へ

顕家が霊山で奥州統治に苦労していたその頃、後醍醐天皇足利尊氏に京を追われ、吉野へ潜幸していた。なんとしても京に戻りたい後醍醐天皇は、顕家に京へ再び攻めのぼりよう、綸旨を発した。

じゃが、奥州の宮方は決して盤石ではない。霊山国府で顕家が書いた答辞には、苦渋の思いが滲み出ている。

勅書并に綸旨及び貴礼を跪いて拝見し候了んぬ、吉野に臨幸の事、天下の大慶、社稷安全の基、此事に候、須らく馳せ参り候の処、当国擾乱の間、彼の余賊を対治せ令め、急ぎ参洛を企つ可く候、去ぬる比、新田右衛門督申送り候の間、先んじて用意致し候了んぬ、而して今に延引本意を失ひ候、此間親王霊山に御座候、凶徒城を囲み候の間、近日合戦を遂ぐ可く候なり、下国の後、日夜籌策を廻す外他無く候、心労賢察有る可く、恐欝の処御礼を披きて欝蒙を散じ候、且つ綸旨到来諸人勇を成し候、無事上洛之時を期し候、此旨を以て披露令め給ふ可く候なり。

新田義貞から使者も来ており、一刻も早く上洛したいが、陸奥国は合戦が続いており、すぐに兵を動かすことはできない。とはいえ、帝から綸旨をいただいた以上、諸人勇躍し、上洛を果たすほかはない。

顕家は諸将を前に西上の覚悟を披瀝したといわれる。

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かくして顕家は2度目の遠征を強行する。延元2年/建武4年8月11日、顕家は義良親王を奉じて霊山城を出発した。ちなみに『太平記』はその兵数を10万余騎としている。

白河関を越えた奥州軍は破竹の勢いで進撃し、あっという間に鎌倉を攻略。足利方の奥州管領斯波家長は討死し、足利義詮らは房総方面に遁走した。ちなみに、わが息子・北条時行はこのとき、顕家軍に合力して武功を挙げておるが、それはまた別の機会にいたそう。

鎌倉を陥落させた顕家軍はいよいよ京をめざし、美濃国青野原で足利方と激突する。激戦の末、奥州軍は足利方を打ち破ったが、長期遠征もあって兵力は消耗。疲弊しきった顕家軍はやむなく伊勢へと転戦し、けっきょく京都奪回はならなかった。

その後、顕家は畿内で戦ったが利あらず、延元3年/建武5年5月22日、石津の戦いで討死を遂げる。享年21。なお顕家の死後、奥州には北畠顕信が下向するが、南朝の劣勢を覆すことはできず、、貞和3年(1337)、霊山は落城。山中の堂宇はことごとく焼失したという。

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もし北畠顕家が上洛などせず奥州に割拠していたら…と、たまに夢想してみることがある。九州ではやがて懐良親王が征西府を打ち立てるし、そのとき南北から足利方を圧迫したら…たんに騒乱が長引いて皇統が乱れただけかもしれぬが、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれぬな。もし、許されるなら、顕家の支援を受けて、鎌倉にはわが息子・時行が攻め込むというのはどうじゃろうか。

険しい山容をみながら、ふとそんなことを考えてしまった。まさに歴史のロマンである。

ちなみに武田信玄に先駆けて「風林火山」の旗印を使ったのは北畠顕家じゃよ。これ、豆な。

アクセス

●電車
東北本線「福島駅」より、福島交通相馬方面バスを利用し「霊山こどもの村入口」、または「行合道」バス停で下車、登山口まで徒歩15〜20分。
福島駅より阿武隈急行に乗り「保原駅」から車で約40分。
「掛田駅」より車で約25分。

●バス利用
福島駅 から、福島交通相馬方面行バスに乗車し、霊山こどもの村入口、又は行合道バス停で下車、登山口まで徒歩15〜20分。

●車利用
東北自動車道「福島西IC」、「福島飯坂IC」、「国見IC」のいずれかより、国道115線に入り、約55分。
福島から国道115線を相馬方面に向かい、霊山こどもの村 霊山登山口に入る。駐車場完備。
東北中央自動車道(相馬福島道路)福島方面から「霊山飯館IC」より約5分、相馬方面からは「相馬玉野IC」より約10分

※はっきりいって、クルマじゃないとしんどいです。