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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

摂家将軍・九条(藤原)頼経について~哀しむべし、哀しむべし

 九条(藤原)頼経について書いておきたい。源実朝公のあと、頼朝公の遠縁として九条家から迎えられた「摂家将軍」のことじゃよ。

 

九条(藤原)頼経

九条(藤原)頼経

寅年寅月寅刻に生まれたため「三寅」

頼経が生まれた九条家五摂家のひとつで、藤原北家嫡流藤原忠通の六男・九条兼実を祖とする。藤原基経のとき、京都九条にあった九条殿に住んだことが家名の由来とされていて、九条の坊名から「陶化殿」とも呼ばれる。

九条兼実の孫・道家の子、教実、良実、実経は頼経の兄弟にあたり、それぞれ九条家二条家一条家に分かれ、これにより藤原北家近衛流とあわせてて五摂家が成立した。

九条兼実はもともと平氏政権、後白河院制には批判的であった。そこで兼実は源頼朝公に接近し、その推挙もあって摂政関白をつとめた。頼経は建保6年1月16日(1218年2月12日)、その兼実の孫・道家西園寺公経の娘・倫子の子として生まれている。寅年・寅月・寅刻に生まれたため、幼名は「三寅(みとら)」と呼ばれた。

3代将軍の源実朝公が暗殺されると、当初、鎌倉幕府は皇族を将軍に迎えようとした。しかし、後鳥羽上皇に拒絶されてしまい、そこで白羽の矢が立ったのが三寅というわけじゃ。

三寅の父・道家は摂政九条良経の嫡子で、母は頼朝公の妹の娘であった。いっぽう母の西園寺倫子も頼朝公の妹・全子の娘であった。三寅は父方も母方も頼朝公の血を引いてたことから、鎌倉に迎えられたのじゃよ。

将軍宣下と竹御所との結婚

鎌倉下向当時、頼経はまだ2歳。そこで数年間は、北条政子殿が尼将軍として三寅を後見した。そして北条義時公、政子殿が相次いで亡くなると、嘉禄元年(1225年)12月、8歳の三寅は執権・北条泰時公を烏帽子親として元服、名を「頼経」に改める。翌年には将軍宣下をうけ、晴れて鎌倉幕府の4代将軍となるのじゃ。

寛喜2年(1230年)12月、13歳の頼経は2代将軍・源頼家公の娘で16歳年上の竹御所を妻に迎えた。これは摂関家と源氏将軍家の血筋の結合を期待されてのものじゃ。ずいぶん姉さん女房ではあるが、夫婦仲は円満であったらしい。

竹御所が懐妊すると、鎌倉では後継者誕生が大いに期待された。しかし、残念なことに竹御所は難産の末に男児を死産、本人も亡くなってしまう。これにより頼朝公と政子殿の血筋は完全に断絶してしまった。藤原定家の日記「明月記」には、この訃報に御家人は激しく動揺したとある。定家は、「平家の遺児らをことごとく葬ったことに対する報いであろう」と記している。ちなみにその後、頼経は藤原親能の娘・大宮局(二棟御方)との間に、後の将軍・頼嗣を儲けている。

当初、幕府は頼経の源氏改姓を目論んだ。しかし、春日明神の神様がそれを許さなかったとかで、この計画は失敗した。頼経自身は、もともと藤原氏の人間としての自覚が強かったようじゃ。ただ、鶴岡放生会や二所詣も執り行うようになり、将軍として幕府儀礼にも参加するようになると鎌倉殿としての自覚が高まっていったようじゃ。

暦仁元年(1238年)、頼経は北条泰時北条時房らを率いて上洛している。このとき、祖父母や両親、兄弟たちと再会した他、権中納言検非違使別当を経て、権大納言まで昇進する。さらには北条時房らを率いて春日大社にも参詣している。年齢を重ね官位を高めていくにつれ、頼経は将軍としての自信を深めていったのであろう。

北条との対立と宮騒動

仁治3年(1242)、北条泰時公が亡くなると、嫡孫の経時公が4代執権となる。このとき経時公は19歳、頼経公は25歳。将軍が年上となったことから、北条庶流の名越朝時を筆頭に、頼経の周囲には反得宗勢力が接近してくるようになる。また、朝廷でも関東申次として北条氏との関係維持に配慮してきた西園寺公経が没すると、頼経の実父・道家関東申次として権力を握り、幕政への介入を試みるようになってくる。そのため、将軍頼経と執権経時公との関係もぎくしゃくしてくる。

そこで寛元2年(1244)、経時公は果断にも、まだ6歳だった頼経の嫡男・頼嗣を将軍に据えてしまう。しかし頼経もまた意地を見せ、鎌倉に留まり、頼嗣の後見役として「大殿」と呼ばれ、幕府内に発言力を温存することになる。

寛元3年(1245)2月、頼経は「大殿」として再度の上洛を計画するが、直前(寛元2年12月26日)に経時・時頼兄弟の屋敷から出た失火によって政所が焼失したことを理由に延期されている。頼経の上洛はその権威を高めることにつながりかねず、北条としてはなんとしても阻止したいと考え、自ら屋敷に火をかけたのではないかという説もあるらしい。

寛元4年(1246)閏4月、経時公が23歳の若さで没すと、執権には、経時公の弟の時頼公が就任する。するとこの代替わりのどさくさのなか、名越朝時の子・光時は、弟の時幸や頼経側近の後藤基綱、千葉秀胤、三善康持ら反執権勢力と語らい、時頼公の排斥を画策しはじめる。後に判明することじゃが、藤原定員の自白によれば、経時公の早死は頼経による呪詛があったらしい。

こうした動きはすぐに時頼公の察知するところとなる。けっきょく名越光時は所領没収のうえ伊豆国へ配流。頼経側近はことごとく評定衆を罷免され、頼経派は敗北する。これが世にいう「宮騒動」じゃ。

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晩年の九条頼経

宮騒動の結果、頼経は京都に送還される。また、父・九条道家関東申次を罷免となり、籠居を命じられる、そして翌年の宝治合戦で、時頼公は三浦氏を滅ぼし、得宗専制が体制が確立する体制は完成したというわけじゃ。

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頼経は4年後の康元元年8月11日(1256年9月1日)、赤痢のため39歳で京都で没する。ちなみに翌月には、頼経の跡を継いで将軍になった頼嗣も死去している。

頼経と頼嗣の2代は「摂家将軍」「藤原将軍」などと呼ばれる。頼経の死にあたり、中流公家の吉田経俊は、そのの日記『経俊卿記』に、「将軍として長年関東に住んだが、上洛の後は人望を失い、遂には早世した。哀しむべし、哀しむべし」と記しているそうじゃよ。

ちなみに、第5代頼嗣の後の将軍には、後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王が迎えられる。以後、鎌倉は宮将軍を戴くことになる。もともと、北条は当初から皇子を将軍に望んでおったから、これで丸く収まったというわけじゃ。将軍にはやはり権威が必要じゃが、さりとて実権をふるわれても困る。そういう意味では、王家はいちばん都合がよかったというわけじゃよ。