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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

光秀生誕の地? 岐阜県可児市の明智城に行ってきた

大河ドラマ麒麟がくる」で大注目。明智光秀生誕地の有力候補とされる岐阜県可児市明智城跡に行ってきたので、今回は、その備忘録じゃよ。

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明智城はどこにあったのか?

明智光秀の出自は謎が多く出生地もはっきりとしない。ただ、江戸時代のはじめに編纂された『美濃国諸旧記』には、「明智城」なるものの存在が記されている。

明智城といふは、土岐美濃守光衡より五代の嫡流、土岐民部大輔頼清の二男、土岐明智次郎長山下野守頼兼、康永元壬午年三月、始めて是を開築し、居城として在住し、子孫代々、光秀迄是に住せり。

大河ドラマののストーリーも、基本はこの線に沿ってつくられているわけじゃが、さて、問題はこの「明智城」がどこにあったのかということじゃ。有力候補としては、岐阜県恵那市明智町の明知城と岐阜県可児市瀬田の明智長山城あり、それぞれの自治体ではPRに余念がない。

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ちなみに、大河ドラマ時代考証をつとめる小和田哲男先生は、恵那市の明知城は遠山明智氏の本拠であり、土岐氏の流れをくむとされる光秀との直接つながらないことから、可児市のほうに(やや)軍配を挙げておられる。ということで、わしもこちらを訪れてみたというわけじゃ。

明智一族ゆかりの天龍寺 

大河ドラマ館にある花フェスタ記念公園の駐車場にクルマを止めて大手門をめざす。所用は10分くらいじゃろうか。

途中に明智一族ゆかりのお寺とされる天龍寺があった。ここには日本一大きな明智光秀の位牌があり、明智一族歴代の墓所もある。例年6月には「光秀供養祭」が行われるらしい。

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これがその位牌で、長さは6尺1寸3分(184cm)。これ、光秀の命日である6月13日にちなんだものらしいぞ。面には「長存寺殿明窓玄智禅定門」という戒名も記されておる。

明智氏歴代之墓所は、鐘楼がある駐車場のところにあった。うっかり見逃すところじゃったぞ。もちろん、ほんとうに明智一族の供養塔である証拠はないのじゃが、やはり、しっかりと手を合わせてから、明智城に登城することをおすすめしたい。

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いざ、明智城へ 

天龍寺のあとは、いよいよ明智城へ。大手門はもちろん復元じゃが、なんとなくそれらしく、リアルに感じる門構えじゃな。ここから本丸跡に向かって登っていく道は「桔梗坂」と名付けられている。遊歩道はきちんと整備されていて歩きやすく、これも大河ドラマ効果じゃろう。

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ただ、城の遺構らしいものはほとんど気づかなかいうちに出丸に到着した。尾根を上りきったこのあたりから反対側の斜面は、完全に住宅街になっており、城郭の雰囲気はまったくない。

二の丸跡の近くには「七人塚」があった。弘治2年(1556年)9月19日、明智城斎藤義龍に攻め込られる。城主の明智光安は弟の光久とともに籠城を決意。しかし多勢に無勢、光安は光秀・秀満を明智家再興のため落ち延びさせ、自刃して果てる。「七ツ塚」はこのとき奮戦した七人の武将を供養するものらしい。

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明智軍記」には奮戦の様子が記されている。

元来、宗宿入道は、一万貫の地を所領しける者也ければ、城中に篭もる所の兵、僅かに三百八十余騎、義を金石に守りける。 鋭卒為りと雖も、度々の合戦に残り少なに討たれしかば、宗宿(明智光安)、いよいよ武に勇め共、堪ふべき様無くして、同九月二十六日、申ノ刻計、舎弟・次右衞門光久と相伴に、艷やかに討死して、名を後代にぞ残しける。

敵は3000余、味方はわずか380。これでは多勢に無勢。どうにもならんわな。

明智城本丸跡から明智荘を遠望する

本丸に到着。明智城は、東西に延び、標高は175m。中央に本丸を築き、別の峰に小城塞、見張り台、城郭施設を配置させていたという。

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落城のとき、十兵衛光秀もまた城と運命をともにせんと決戦を試みるが、叔父の宗宿入道は十兵衛の鎧の袖を掴んで引き留めた。

某は、亡君の恩の為めに相ひ果てるべし。 御辺は、唯今、身を捨つるべき処に非ず。命を全ふして、名字を起こし給へ。それこそ先祖の孝行なれ。 其の上、光秀は、当家的孫殊に妙絶勇才の仁にて、直人共覚へず候へば、某が息男・弥平次光春、甥の次郎光忠をも偏に頼み候也。如何様にも撫育して、家を起こされ候へ

「見たんかーい!」というつっこみは、この際、無しで。一族の最期を迎える悲しみはわしにはよーくわかるぞ。ともかく、大河ドラマ前半の名場面ともいえる明智城落城。どんな風に描かれるか、期待して待つことにしよう。

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展望デッキからは明智荘が一望できる。好風景を眺めていると、たしかに、この地が光秀が生まれた地と言うのは本当のような気がしてくる。のどかじゃ。じつにのどかじゃ。

遠くに森蘭丸所縁の美濃金山城跡が見える。明智光秀森蘭丸本能寺の変の重要キャストの二人の生誕地がこんな近くだというのは、ちょっとした因縁を感じないでもない……などと、しばし物思いに耽ってみる。

本丸を後にし、北側の搦手から下山する。こちらは「十兵衛坂」と名付けられ、きちんと遊歩道が整備されている。地元の光秀愛、大河にかける思いが伝わってくる。明智城落城のとき、光秀や秀満はここから逃れたのかな、などと思いを巡らせながら歩いてみる。

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西大手曲輪のあたりに、ぽつねんと祠が建っている。なんでも、昭和48年、このあたりで「六親眷属幽魂塔」と彫られた石塔が、地中に埋められているのが発見されたらしい。

案内板には、「六親眷属」とは歴代の明智城主のことで、この石塔は一族を慰霊するためのものだとある。発見された時は石の頭だけが現れ、不自然に埋没した状態だったらしい。これは当時の人が逆臣の明智をおおっぴらに慰霊することが憚られたからではないかと推察している。

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「この地の住民がこんな方法で当局の目をくらましてまで明智一門の霊を慰めていたのは、とりもなおさず歴代明智城主が善政を施し、領民が深くその徳を慕っていた証左である」

……ちょっと強引な気もするが、地元の人の明智愛へのなせるわざであれば、まあ、よいのかもしれぬな。

謎は謎のままのほうがよいのかも…

明智城からの帰路、明智光秀の産湯の井戸があったと伝えられる場所にも行ってみた。場所は小さな川の畔で、残念ながら、水田の中に案内板があるのみじゃ。ただ、 昭和6年発行の可児郡廣見尋常小学校の副読本には、このあたりに古井戸があり、「村人たちはそれを光秀のうぶ湯の井戸と言い伝えている」と記されているらしい。 

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なお、くりかえずが、ここが明智光秀生誕の地である証拠はない。今回訪問した明智城も、城郭研究者の間では、ほとんどが自然地形であり、城郭と言えるかは疑問という意見もある。

はたして、事実はいったい?

現在、光秀出生の地とされる場所は、岐阜県内に4箇所、滋賀県内に1箇所ある。いずれも決め手がないが、それがかえってよいのかもしれない。実際、岐阜県では、あえて有力地位を絞らず、各地が連携しての「周遊型」の集客をめざしているという。大河が終了するまで、謎は謎のままであるほうがかえってよさそうじゃ。

もっともコロナ騒動で、観光はかなりダメージを受けているはず。早く収束することを祈っておるぞ。

ちなみに明智光秀の出自については、過去にも一度書いているので、それを読んでもらえれば幸いじゃ。

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