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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

足立遠元のこと~源頼朝にいち早く仕えた武蔵武士

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく企画の6人目は足立遠元のこと。遠元は鎌倉幕府公文所の寄人をつとめた有力御家人の一人じゃよ。

鎌倉殿の13人

足立氏の出自

足立氏は武蔵国足立郡を本拠とした在地豪族。父の藤原遠兼が武蔵守として武蔵国足立郡に土着し、遠元の代から足立を名乗ったといわれている。

足立氏は藤原北家魚名流の藤原山蔭の後裔で、源頼朝公の側近・安達盛長は藤原遠兼の弟にあたる。つまり、遠元は年上の甥ということになるわけじゃ。

一説には、足立氏の祖は、平将門の乱で武蔵権守興世王や源経基と戦った足立郡司・武蔵武芝であるともいう。その後、坂東で力を蓄えているうちに、藤原氏との血縁が出来た、というんじゃな。

源頼朝に仕える

遠元は平治の乱で源義朝殿の陣に従い、悪源太源義平が率いる17騎の一人として活躍している。『平家物語』には、味方の武将・金子家忠が矢を使い果たし、刀も折れて困っていたところ、居合わせた遠元が自分の郎党の刀を与えたという逸話がある。

平治の乱に敗れた後、遠元がどうしていたのかはよくわからない。じゃが、驕る平家の評判が京で悪くなってくると、後白河院近臣らは密かに平家打倒の計画を立て始める。その中心人物の一人が藤原光能であり、遠元の娘は光能に嫁いでいた。

伝承によれば、治承4年(1180)7月、福原京にいた光能の許に伊豆の源頼朝公と面会した文覚が訪れ、平清盛追討の院宣を出すように迫ったとされている。もちろん、事実かどうかはわからないが、光能が院近臣として平家打倒に向けて暗躍していたことは確かであり、さすれば遠元を通じて京の情勢を頼朝公に伝えていたことは想像に難くない。おそらく遠元自身も源頼朝公から挙兵の企てを事前に聞かされておったのじゃろう。

遠元は石橋山の戦いには間に合わなかったものの、房総半島に逃れて再起した頼朝公を、豊島清元・葛西清重父子らと共に、隅田川付近でお迎えしている。

武衛(頼朝公)、常胤・廣常等が舟楫に相乗り、大井・隅田の両河を渡る。精兵三万余騎に及び、武蔵の国に赴く。豊島権の守清元・葛西の三郎清重等最前に参上す。また足立右馬の允遠元、兼日命を受けるに依って、御迎えの為参向すと。(『吾妻鏡』治承4年10月2日条)

遠元は武蔵武士として初めての参陣であり、この功により武蔵国足立郡を本領安堵されている。これは頼朝公にとっても東国武士への初めての本領安堵であった。もちろん、旗揚げ前からの忠節が認められてのものじゃろう。

以後、遠元は頼朝公に仕え、源平合戦に参戦。「宇治川の戦い」には源義経殿の寄騎として従い、熊谷・畠山の諸将と宇治川の渡河を競っている。

幕府宿老として

元暦元年(1184)、公文所が設置されると、坂東武者でありながら5人の寄人のうちの1人に選ばれた。また建久元年(1190)、頼朝公上洛の際には、右近衛大将拝賀の布衣侍7人に選ばれて、参院の供奉をしている。遠元は坂東武者でありながら文官の素養もあったようじゃな。

その後は奥州合戦でも勲功をあげ、左衛門尉に任ぜられている。そして頼朝公没後は、源頼家公を補佐する十三人の合議制の1人に名を連ねている。

ちなみに、遠元の娘は院近臣の藤原光能ほか、同じ武蔵の御家人・畠山重忠、そして北条時政の子・時房に嫁いで、それぞれ男子を儲けている。幕府宿老として、公武ともにしっかり縁戚関係をつくっていたということじゃな。

じゃが、その後の遠元は『吾妻鏡』の承元元年(1207)3月3日条の闘鶏会の記事に参加したことが記されているが、これを最後に史料から姿を消している。年齢的にも、このあと、程なく没したということじゃろう。なお、足立遠元館跡は現在の桶川市やさいたま市など数か所が伝承されている。

その後の足立氏について

武蔵国足立郡の地頭職として、足立氏発展の祖となった遠元じゃが、その子孫についても少々。遠元は足立郡内に元春、元重、遠継、遠村、遠景の5人の子息を配置し、その子孫が代々その地を支配した。じゃが、嫡曽孫の足立直元は霜月騒動(1285)で安達景盛に与して自害し、ここに足立氏は没落する。

むしろ足立の流れは丹波国に脈々と受け継がれていく。承久の乱で幕府が勝利すると、遠元の孫・遠政(遠光の子)は丹波国氷上郡佐治郷の地頭となる。その子孫は鎌倉、南北朝、室町、戦国の時代を生き抜くが、織田信長の丹波攻略により没落、帰農したという。「丹波あまごの里」として有名な丹波市青垣町は、全人口のうち約4割の3,300人が足立氏を祖先とし、足立氏姓を名乗っているという。

ということで、遠元について書いてきたけど、はっきりいって地味すぎて、あんまり書くネタがない。大河ドラマでも、まだキャスティングは発表されていないし、13人の中でも影が薄い存在になるかもしれぬ。

じゃが、ネタがないからといって遠元の評価が下がるというものではない。むしろ逆で、権力闘争に右往左往することなく、堅実着実に役目を果たしていた証左といえる。

足立遠元のような人物こそが、頼朝公を、鎌倉開府を真摯に支えてきたというわけじゃな。