北条高時.com

うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

朝夷奈切通から上総介塔へ、上総広常を偲んでぶらぶら歩いてきたぞ

GWということで、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で話題沸騰した上総広常を偲び、朝夷奈切通をぷらぷらとしてきた。朝夷奈切通鎌倉七口のひとつで、神奈川県鎌倉市十二所から横浜市金沢区朝比奈町を結ぶ中世の古道じゃ。これから行こうという人もいるかもなので、ガイドがわりに記しておこうと思う。

朝夷奈切通

朝夷奈切通(鎌倉十二所側です)

鎌倉駅から十二所へ

鎌倉駅西口から京浜急行23系統太刀洗、24系統金沢八景行きバスに乗車して十二所神社バス停で下車。信号脇の細い道を右に進むと案内があるので迷うことはないじゃろう。太刀洗川沿いをぷらぷら歩くと、鎌倉古道朝夷奈切通に到着する。

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十二所という地名の由来は、天保年間まで光触寺境内にあった鎮守熊野三山の「熊野十二所権現社」(現在の十二所神社)に由来する。この十二所(現在の果樹園あたり)に上総介の屋敷があったようじゃ。ここは鎌倉から六浦津に出て海を渡り、安房、上総、下総へと通じる要路であり、上総介が居を構えた理由がよくわかる。

上総介は義朝殿の代から源氏に仕えており、その頃から鎌倉に屋敷を構えていたと思われる。鎌倉入りした頼朝公もしばしば上総介邸に滞在したようで、「吾妻鏡」には新造された大倉御所ができると和田義盛に先導させ、ここから新邸に入ったという記録がある。

梶原太刀洗

現在、このあたりに上総介邸があったことを伝える碑や案内板の類はない。ただ、太刀洗川という川の名前と梶原太刀洗水という湧き水が、ありし日の上総介邸を想像させてくれる。

梶原太刀洗

梶原太刀洗

上総介広常は頼朝公から謀反の疑いをかけられ、梶原景時に暗殺されてしまう。景時は営中で上総介と双六に興じているときに、隙をみて襲いかかり、首をとったといわれている。

この湧き水は、景時が上総介を誅殺後、太刀の血のりをすすいだと伝えられている。うっかり通り過ぎてしまうところじゃったが、大河ドラマのあの場面を思い出しつつ、当時の中世鎌倉古道の雰囲気を感じつつ、しばし手を合わせてきたぞ。

朝夷奈切通碑文

朝比奈切通碑

朝夷奈切通

碑文にはつぎのようにある。

鎌倉七ロノ一二シテ 鎌倉ヨリ六浦へ通ズル要衝二當リ 大切通切通ノニツアリ
土俗二朝夷奈三郎義秀一夜ノ内二切抜タルヲ以テ其名アリト伝ヘラルルモ 東鑑二仁治元年(皇紀一九〇〇)十一月鎌倉六浦間道路開鑿ノ議定アリ
翌二年四月經營ノ事始アリテ 執權北條泰時其所二監臨シ 諸人群集シテ各土石ヲ運ビシコト見ユルニ徴シ 此切通ハ即チ其當時二於テ開通セシモノト思料セラル

ということで概略はわかったので、先へ進むとしよう。

朝比奈三郎伝説

三郎池

朝比奈の滝(三郎の滝)

切通の鎌倉側入口、碑文の横には「朝比奈の滝」(三郎の滝)がある。これは切通を一夜にして切り開いたという伝承が残る朝比奈三郎義秀に因んで名付けられたものじゃ。

朝比奈三郎義秀は和田義盛の三男で、母は木曽義仲の妾となった巴御前とも伝えられている。もちろんどこまで本当かわからない。ただ、大河では、この設定をとりそうな気がするし、頼家に命じられて海に入ってサメを3匹捕まえてきたという逸話もあるほどの剛の者ゆえ、あながち創作じゃないような気がしないでもない。朝比奈三郎義秀は和田合戦でも大奮戦し、北条を窮地に落としいれたが、敗れて安房へ脱出、高麗へ逃れたともいわれている。やはりここから六浦へと向かったのかもしれぬな。

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北条氏と六浦津

朝夷奈切通

朝夷奈切通し

朝夷奈三郎の伝承はともかくとして、じっさいにこの切通しが整備されたのは執権・北条泰時公の時代である。「吾妻鑑」の仁治元年(1240)11月30日条には、泰時公自らが 監督して工事したと記されている。

鎌倉と六浦津との中間、始めて道路に当てらるべきの由議定有り。今日縄を曳き丈尺を打ち、御家人等に配分せらる。明春三月以後造るべきの由仰せ付けらると。前の武州(泰時)その所処を監臨し給う。中野左衛門の尉時景これを奉行す。泰貞朝臣日次を擇び申すと。

当時、六浦津は天然の良港で鎌倉の外港の役割を果たした。はじめは和田氏が所領としたが、和田が滅びると泰時公は、この重要な地を弟の北条実泰に与えた。そして実泰の子実時はこの地に館を構え、以後、顕時、貞顕と金沢氏が治めることになる。

六浦津は、鎌倉幕府滅亡後も海上交通の要衝として栄え、近世期には入り江付近の景観が金沢八景と称賛され、多くの文人墨客が六浦の地を訪れている。

ちなみに、昔の金沢は塩の産地であり、十二所の光触寺にある塩なめ地蔵は、塩売りがこの切通を越えて鎌倉へ商いに出るとき、お初穂の塩を供えたと言われておるぞ。

峠を越えて朝比奈側へ

鎌倉市との境にある大切通から峠を越え小切通を下っていくと、熊野神社への分かれ道がある。この熊野神社は、頼朝公が鎌倉の鬼門の方位に当たる地に熊野三社明神を勧請したのが始まりとされている。ただ、今日は上総介を偲ぶ旅、先を急ぐため参拝は割愛する。

熊野神社

朝夷奈切通熊野神社への別れ道

そうこうしているうちに横浜市側に抜けた。道はわりと整備されていて歩きやすいし、30分もかからず抜けられた。ただ、ところどころぬかるみもあるし、足元注意で散策してほしい。

朝夷奈切通

朝夷奈切通横浜市金沢区側入口)

上総介塔(上総広常の墓?)

朝夷奈切通を後にして上総介塔へ向かう。場所は京浜急行朝比奈バス停のほど近く。横浜横須賀道路の朝比奈インターからもすぐで、横浜環状4号線という幹線道路沿いに供養塔があった。 

上総介塔(横浜市金沢区)

上総介塔(横浜市金沢区

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での佐藤浩市さんの好演もあり、紀行でもとりあげられたことから、訪れる人も多いようで、今日もわし以外に4、5人が入れ代わり立ち代わり手を合わせておった。

もっともこの「上総介」の供養塔が上総広常の墓なのかは、はっきりしないらしい。しかもこの供養塔は、道路拡張の時に失われ、昭和59年に地元の有志により復元されたもの。ただ、地元の人が広常のものだと思ってねんごろに供養しているのじゃから、それでよいのじゃよ。

とはいえ、これまでどちらかというと傲岸不遜なヒール役だった上総介がここまで愛されるとは、当の本人もびっくりしているかもしれぬな。

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