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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

足利貞氏~浄妙寺へ高氏のパパの墓参に行ってきた件

鎌倉五山の第五位・浄妙寺。文治4年(1188年)、足利義兼の創建と伝えられている。かつては広大な寺地を有しており、現在も付近一帯を「浄明寺」という。今回は、浄妙寺を中興した足利貞氏についてじゃよ。

浄明寺(鎌倉市)

浄明寺(鎌倉市

ということで、足利貞氏の生涯についてみていくことにしよう。

足利貞氏の事績をまずはざっくり

貞氏は足利氏7代目当主で高氏(尊氏)のパパ。父は足利家時、母は重時流・北条時茂の女である。大河ドラマ太平記」では、緒方拳さんが好演しておったのをよく覚えておる。

貞氏が父・家時の自害を受けて当主となったのは10歳の頃。家時が自害害した理由いついては諸説ある。

こうしたことがいわれているが、 はっきりとした理由はわからない。いずれにせよ貞氏は、祖父・足利頼氏以来3代続けての幼少の当主となり、執事の高師氏・高師重父子の補佐をうけて、金沢顕時の娘(釈迦堂殿)を正室に迎えるなど、家時自害後も北条氏との関係を保っていく。諱の「貞」の字は、元服の際に当時の執権・北条貞時公の偏諱じゃよ。

貞氏の公的な活動を示す史料は少ないが、17歳の時、新将軍久明親王の鎌倉到着にあたって、これを御所においてこれを迎えているから、有力な御家人として重用されていたのは間違いない。

貞時公が出家すると、貞氏もこれに追従して出家したとされる。貞時公十三回忌法要では法華経を書写し、進物を贈っており、北条氏との関係強化に心を砕いている。

やっぱり胡散臭い足利家時の「置き文」

足利家時が子孫に天下取りを託したという「置き文」。詳細についてはこちらの記事を読んでもらうとして…

takatokihojo.hatenablog.com

大河ドラマで緒方拳さん演じる貞氏パパは、家時が残した「置文」の存在を高氏に明かす。源氏嫡流として北条の風下で忍従し続けた家時は貞氏に、「わしに代わって天下をとれ。そちの代で出来なければその子にとらせよ」と言い残し、自決したという、例の話じゃ。

「四十年、これとの戦いであった。何度も思うた。なぜ源氏の嫡流に生まれてきたのか、と。徳なく才乏しくわずかに家名を保ってこの病だ……。
高氏、あとを頼む。父のように迷うな。神仏の許しがあれば天下をとれ。それが道と思ったら弓をとれ!」

かくして高氏は心に反北条の火を灯す。大河ドラマ太平記」の名場面の一つじゃ。

この「置文」は、今川了俊が書いた「難太平記」で出てくるのじゃが、その存在そのものが眉唾ものと言われている。たしかに家時は自害したが、「置文」は足利が幕府を開いた後、その正当性を裏付けるための後世の創作と考えられているのじゃ。

そもそも源氏一門といっても、足利の他にも武田氏や小笠原氏といった名門の家はある。足利だけが唯一の源氏一門というわけではない。

ただ、足利は代々、北条と姻戚関係を結んできたことで優遇されてきた。いわば北条とは身内でありズブズブの運命共同体。貞氏ももちろんそうで、北条への恨みなど、ほんらいは抱くはずもない(と思う)。

足利貞氏を演じる緒形拳さん(大河ドラマ「太平記」)

足利貞氏を演じる緒形拳さん(大河ドラマ太平記」)

貞氏の嫡男・高義が長生きしていれば……

貞氏には正室金沢顕時の娘・釈迦堂殿との間に、嫡男・高義が生まれている。高義の「高」はもちろん、わし、北条高時偏諱じゃ。

足利の歴代当主の諱は、「得宗当主の偏諱」と足利の通字である「氏」となるのが通例であった。貞氏はもちろん、頼氏、泰氏もそうだった。だが、高義には「氏」のかわりに清和源氏の通字である「義」が使われている。じつはこれ、足利貞氏が将軍と得宗家に忠節を誓うことで、得宗家が足利氏を「源氏嫡流」としてもちあげてやったという説もあるじゃよ。

ということで、この時期の足利と北条は蜜月だったんじゃが、残念ながら高義は早世してしまい、家督は高氏が嗣ぐことになる。

ちなみに高氏の母は京に近い上杉の出身。のちに赤橋の娘を嫁にはしているが、高氏は北条との絆はそれほど強く感じていなかったかもしれぬな。

もし、高義が長生きしておれば、得宗家に忠節を尽くしてくれたじゃろう。そんな気がする。 それだけに高氏の裏切りは納得がいかないというのが今日の結論じゃな。

なお、わしが愛読しておる「バンデット」には、とんでもない荒くれ者の貞氏が登場してくる。高義も早世せず、猿冠者と名乗って乱世で大活躍する歴史活劇で、なかなか痛快じゃよ。

バンデット(1) (モーニングコミックス)

バンデット(1) (モーニングコミックス)

 

足利貞氏

足利貞氏



足利高義

足利高義

鎌倉浄明寺にある貞氏の墓

貞氏が眠る浄明寺は臨済宗建長寺派の古刹で鎌倉五山の第五位、開創は足利義兼、開山は退耕行勇と伝えらている。行勇は、はじめ真言密教を学んだが栄西の門下に入り臨済禅を修めた。源頼朝や政子、実朝も帰依した高僧じゃ。

室町期に足利義満が五山の制度を定めた頃は、七堂伽藍と塔頭23院という堂々たる大寺院であったが、火災などのために衰退し、現在は総門、本堂、客殿、庫裡だけが残っている。本尊は釈迦如来で、境内は国の指定史跡である。

境内墓地にある貞氏の墓とされる宝篋印塔に合掌。近くには足利直義の墓もあるらしいが、それについては、またいずれ。

足利貞氏墓所

足利貞氏墓所