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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

甲斐源氏・一条忠頼暗殺のこと~なぜ源頼朝に殺害されたのか

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、父・武田信義とともに源(木曾)義高をそそのかしたことで頼朝公に殺されてしまった一条忠頼。その真相はよくわからないところが多いが、よいきっかけなので整理しておこう。

一条忠頼之墓(山梨県南巨摩郡富士川町Wikipediaより)

平家、木曽義仲追討で武功をあげる

一条忠頼は甲斐源氏武田信義の嫡男として誕生した。甲斐源氏源義光新羅三郎義光)を祖とする河内源氏系諸家のひとつ。同じ義光を祖とする佐竹氏(常陸源氏)や平賀氏(信濃源氏)とは同族の名門じゃ。忠頼は一条郷(山梨県甲府市)に拠ったことから一条氏を称した。

以仁王の令旨を受けた武田信義は治承4年(1180)8月下旬に挙兵した。8月23日、源頼朝公は石橋山の戦いに敗れたが、甲斐源氏は同族の安田義定が波志田山で大庭景親の弟・俣野景久を破るなど大いに奮戦した。武田信義はその後、信濃国平氏家人や駿河国目代を攻める。そして駿河国に進出し、10月には富士川の戦いで頼朝公の軍と連携して平氏の追討軍を撃破した。この間、忠頼も父とともに参戦している。

寿永3年(1184)、忠頼は範頼義経兄弟が率いる木曽義仲追討軍に加わり、武功をあげている。『吾妻鏡』はその様を「一条次郎忠頼已下の勇士、諸方に競ひ走り」(正月20日条)と記しているが、粟津の戦いでは義仲軍を追い詰めている。

その後の一ノ谷の戦いの勝利で平氏屋島に退くと、遠征軍は一部の兵を京に残しては鎌倉に戻る。忠頼もこの時に東国にに戻ったようじゃ。じゃが、それからまもなくの6月16日、鎌倉に招かれた忠頼は酒宴の最中に、頼朝公の命を受けた天野遠景によって惨殺されてしまうのじゃ。

一条忠頼、酒宴に招かれ暗殺される

忠頼謀殺の経緯を『吾妻鏡』はこう記している。少し長いが紹介しておこう。

一條次郎忠頼威勢を振うの余り、濫世の志を挿むの由その聞こえ有り。武衛又これを察せしめ給う。仍って今日営中に於いて誅せらるる所なり。

晩景に及び、武衛西侍に出で給う。忠頼召しに依って参入し対の坐に候す。宿老の御家人数輩列座す。献盃の儀有り。工藤一臈祐経銚子を取り御前に進む。これ兼ねてその討手に定められをはんぬ。而るに殊なる武将に対し、忽ち雌雄を決するの條、重事たるの間、聊か思案せしむか。顔色頗る変わりしむ。

小山田別当有重彼の形勢を見て座を起ち、此の如き御杓は、老者の役たるべしと称し、祐経が持つ所の銚子を取る。爰に子息稲毛の三郎重成・同弟榛谷の四郎重朝等、盃肴物を持ち、忠頼の前に進み寄る。有重両息に訓えて云く、陪膳の故実は上括なりてえり。持つ所の物を閣き括を結ぶの時、天野の籐内遠景別の仰せを承り、太刀を取り忠頼が左方に進み、早く誅戮しをはんぬ。

この時武衛御後の障子を開き入らしめ給うと。

ある夜、頼朝公は西の侍所へお出ましになられ、忠頼はお召しにより、その正面に座った。幕府の宿老や御家人が、左右に分かれて並んで座るなか、工藤祐経が銚子を持って頼朝公の御前に進んできた。

祐経は暗殺を命じられた実行者である。じゃが、殺害を躊躇しているのか顔色が変わって動けない。やむなく小山田有重が「お酌の役目は年の功のがよいじゃろう」を変わることにし、祐経が持っていた銚子を取上げた。そこへ息子の稲毛重成とその弟の榛谷重朝が杯と肴を持って一条次郎忠頼の前へ進み出る。

有重は二人の息子に、「古の給仕の礼では、袴の裾のくくり紐は膝下で結ぶ上括りでなければいかんぞ」などと説明しながら、銚子を置いて括り紐を結びなおそうとする。忠頼はそれををじっと見ていたが、このとき天野遠景が太刀を取って左側へ進み、忠頼に切りつけた。

そして頼朝公は無言で自席の後ろの障子を開け、次の間へ入ってしまった。

なぜ一条忠頼は殺されたのか

殺害の様子は『吾妻鏡』に克明に描かれているが、その理由は「威勢を振ふの余りに、世を濫る志を挿む」と記しているだけで、具体的にはよくわからない。

じゃが、一時、東国では源頼朝公、武田信義木曾義仲三者が「武家の棟梁」として並立する時期が続いた。やがて頼朝公と義仲が不仲になると、信義は頼朝公と協調路線をとるが、新羅三郎義光を祖とする名門として、それは本意ではなかったじゃろう。しかし、同格の武家の棟梁の存在を認めたくなかった頼朝公にとって、信義が目障りであったことは確かじゃろう。

たとえば、武田信義の三男・板垣兼信は一条忠頼とともに平家追討軍に加わっていたが、門葉の自分が土肥実平の配下となったことを不満とし、頼朝公に訴え出る事件があった。しかし、頼朝公は「門葉に依るべからず。家人に依るべからず」「兼信が如きは、ただ戦場に向かい命を棄つべき一段なり。それ猶以て足るべからず。今の申状、過分と謂うべし」と、これを退けている。

養和元年(1181)、後白河法皇が信義を頼朝追討使に任じたという風聞が流れると、信義は鎌倉に召喚され、「子々孫々まで弓引くこと有るまじ」という起請文を書かされている。 

また、寿永3年5月1日、頼朝公は木曾義仲の遺児・義高誅殺を受けて、その与党追討のために鎌倉から信濃に軍勢を発向させている。このとき足利義兼、小笠原長清の軍勢は甲斐に進攻しているが、単なる残党狩りにしては規模も大きく、これは武田信義への示威行動であったと見ることもできる。

そんな矢先の忠頼暗殺である。「鎌倉殿の13人」では、武田信義・一条忠頼父子が義高を唆して頼朝公に叛意を示したことを理由に忠頼が殺される設定になっていた。もちろんそれはドラマの創作ではあるが、頼朝公が武田を押さえ込むために、その見せしめとして忠頼を屠ったことは間違いないじゃろう。

かくしてこれ以後、頼朝公や義仲と同格で武家棟梁であった甲斐源氏は、鎌倉殿の御家人という扱いへと転じていくのじゃ。 

大河ドラマでも後白河法皇が「源氏の棟梁は頼朝ではないのか」と、木曽義仲、新宮行家を前に驚くシーンがあったが、後世のわれわれから見れば「源氏の棟梁」といえば頼朝公で決まりというイメージがある。武田信義演じる八島智人さんが鼻持ちならないああいうキャラじゃから、なおさらではあろう。

じゃが、当時の頼朝公はその候補の一人でしかなかった。その地位の危うさは、頼朝公自身が感じていたはず。それゆえ、九郎殿も蒲殿も全成も粛正されてしまうわけじゃな。そんな頼朝公を支え、「武家の棟梁」に担ぎ上げたのが坂東武者であり、その筆頭格がわが北条というわけなんじゃよ。