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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

源頼朝敗れる!石橋山の合戦とは、どんな戦いだったのか

さて、今回は石橋山の戦いについて。治承4年(1180)、源頼朝公が平家打倒を掲げて決起したものの、大庭景親平氏方に敗れた戦いじゃ。

石橋山古戦場碑

石橋山古戦場碑

源氏軍は300騎に対して平氏軍は3000騎。坂東武者が思うように集まらず、頼みの三浦も酒匂川の反乱で合流できず。散々な負戦であったが、この窮地を切り抜けたことで、頼朝公やわが北条は、運命を開いていく。

なお、山木館襲撃についてはこちらを。

源頼朝公、石橋山に布陣

源頼朝公挙兵の報せが都に届くと、平清盛は烈火の如く怒ったという。

入道相国、いかられける様なのめならず。「頼朝をばすでに死罪におこなはるべかりしを、故池殿のあながちになげきのたまひしあひだ、流罪に申しなだめたり。しかるに其恩忘れて、当家にむかッて弓をひくにこそあんなれ。神明三宝もいかでか許させ給ふべき。只今天の責め、かうむらんずる頼朝なり」とぞのたまひける。(『平家物語』) 

平氏方の動きは迅速で、すぐさま相模の大豪族・大庭景親が3,000騎を率いて出陣してきた。一方、伊豆目代山木兼隆を血祭りにあげて意気揚々と旗揚げした頼朝公じゃったが、思うように兵を集めることができないでいた。今のところ、頼りになるのは三浦一族のみ。頼朝公は8月20日、300騎をもって相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)に進出し、三浦と合流することとした。

吾妻鏡』にはこのとき頼朝公に従った「扈従の輩」の名が記載されている。

北条四郎(時政)、子息三郎(宗時)、同四郎(義時)、平(北条)六時定、(安達)籐九郎盛長、工藤介茂光、子息五郎親光、宇佐美三郎助茂、土肥次郎実平、同彌太郎遠平、土屋三郎宗遠、次郎義清、同彌次郎忠光、岡崎四郎義実、同余一義忠、佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三郎盛綱、同四郎高綱、天野藤内遠景、同六郎政景、宇佐美平太政光、同平次実政、大庭平太景義(景親の兄)、豊田五郎景俊、新田四郎忠常、加藤五郎景員、同籐太光員、同籐次郎景廉、堀籐次親宗、同平四郎助政、天野平内光家、中村太郎景平、同次郎盛平、鮫島四郎宗家、七郎武者宣親、大見平二家秀、近藤七国平、平佐古太郎為重、那古谷橘次頼時、澤六郎宗家、義勝房成尋、中四郎惟重、中八惟平、新藤次俊長、小中太光家

この顔ぶれを見るに、北条も含め、必ずしも源氏累代の家臣ばかりとはいえないようじゃ。平家の圧政を快く思わない武士が頼朝公を旗頭に集結したが、大半の坂東武者は平家の世は盤石とみて、大庭景親に合力していたのじゃ。

ただ、景親の兄・大庭景義は頼朝公の下に参陣している。亡き義朝公の恩義に応えたのか、先見の明があったのか、どちらが勝っても大庭の家を残せるという深謀だったのか、それはわからない。じゃが、この戦、どうあっても頼朝公には分が悪い。

23日、頼朝公は300騎で石橋山に陣を張った。一方、大庭景親は3000余騎を率いて谷ひとつ隔てて布陣。伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山に進出し、頼朝の背後をつく動きを見せた。

頼朝公が頼りにしたのは三浦一族は連日の大雨で酒匂川が氾濫し、参陣することができないでいた。三浦義澄は景親の党類の館に火を放ったが、これをみた景親は三浦勢が到着する前に雌雄を決すべく、闇夜の暴風雨の中、夜戦を仕掛けることを決めた。

大庭景親北条時政の舌戦

石橋山、草燃えるの大庭景親と北条時政

大河ドラマでは、開戦にあたり、坂東彌十郎さん演じる北条時政殿と國村隼さん演じる大庭景親が舌戦を繰り広げた。「やあやあ、われこそは」の名乗りは、いかにも中世武士らしくて面白かったぞ。ちなみに、このやりとりは 『源平盛衰記』をもとにしたものじゃ。その下をちょっと超訳すると、まあ、こんな感じじゃ。

景親「そもそも平家は桓武帝の御苗裔、葛原親王御後胤として、遥に朝家の御守、武勇の名勝の家である。特に入道清盛様は、保元平治の凶賊を鎮治して以来、公家の重臣として太政大臣にも昇り、その威応は天下万民に及んでいる。今たやすくも平家御代との合戦をするなど、どこの阿呆の企てじゃ。蟷螂の手を挙て牛車に立ち向かうようなものじゃ。名を名乗れ」

時政「お前、知らんのか! わが君は清和天皇第六皇子、貞純親王の御子、六孫王より七代の後胤、八幡太郎義家殿の四代の御孫、前右兵衛権佐殿だぞ。傍若無人の景親め。お前が尻尾を振っている平家は悪行身に余て、朝威を蔑にしておるではないか。われらはすでに彼奴ら一門を追討せよという法皇様の院宣を受けておる。されば佐殿こそ日本の大将軍よ。平家こそ今は朝家の賊徒よ。そもそも、故八幡殿が奥州の安倍貞任宗任を攻めて以来、坂東武者であれば、君の御家人にあらざる者などいないではないか。お前だってそうじゃ」

景親「いかにも、わしは昔八幡殿の後三年の軍に御伴して、十六歳にて先陣を駆け、名を後代に留し鎌倉権五郎景政が末葉じゃ」

時政「ならば、なぜ、三代相伝の君に敵するのじゃ。忠臣は二君に仕えずというではないか」

景親「いかにも、先祖は誠に主君。ただし、昔は昔今は今。恩こそ主よ。源氏は朝敵となり、我身は一人の置所なし、家人の恩までは沙汰の外じゃ。景親は平家の御恩を蒙り、それは海よりも深く山よりも高い。何ぞ世になき主を顧み、今の御恩を忘れてなるべきか」

時政「欲は身を失うというぞ。一旦の恩に耽て、重代の主を捨てるとは、弓矢取身がそれで良いのか。生ても死ても名こそ惜けれ。景親よ、権五郎景政が末葉と名乗ながら、先祖の首に血をあやす、欲心極まれりじゃ!」

ドラマでは、時政殿が挑発される描写であったが、『源平盛衰記』によれば、この舌戦は時政殿の側に道理があったようじゃ。時政殿の言葉に、敵も味方もどっと笑いが起きたと記されておるぞ。

じゃが、わが軍は力戦するも多勢に無勢で敵わず大敗。工藤茂光岡崎義実の子・佐奈田与一義忠らが奮戦の上、討ち死にした。ちなみに佐奈田与一の奮戦は凄まじく、この地には与一を祀る佐奈田霊社が創建されている。

なお、佐奈田与一の奮戦については、こちらを参考までに置いておくぞ。

さて、勢いに乗った大庭軍は追撃を開始。幸い敵方ながら、頼朝公に心を寄せる大庭軍の飯田家義の手引きにより、頼朝公らは辛くも土肥の椙山に逃げ込むことができた。しかし、翌24日も大庭軍の追撃は続く。

武衛(頼朝)椙山内堀口の辺に陣し給う。大庭の三郎景親三千余騎を相率い重ねて競走す。武 衛後峰を逃げしめ給う。この間加藤次景廉・大見の平次實政、将の御後に留まり、景親を防禦す。而るに景廉が父加藤五景員、實政が兄大見の平太政光、各々子を思い弟を憐れむに依って、前路を進まず、駕を扣え矢を発つ。この外加藤太光員・佐々木の四郎高綱・天野の籐内遠景・同平内光家・堀の籐次親家・同平四郎助政、同じく轡を並べ攻戦す。景員以下の乗馬、多く矢に中たり斃れ死す。武衛また駕を廻し、百発百中の芸を振るい、相戦わるること度々に及ぶと。その矢必ず羽ぶくらを飲まずと云うこと莫し。射殺す所の者これ多し。(『吾妻鏡』)

このとき、頼朝公も弓矢をもって自ら戦い、百発百中の武芸を見せたという。頼朝公は源氏の御曹司、武芸は達者であったのじゃよ。大河でも大泉頼朝が、なかなか堂に入った弓矢捌きを見せていたじゃろう?

山中の逃走劇が続く中、ちりぢりになった武者たちも集まってきた。頼朝公は臥木の上に立ってこれを迎えたが、このとき土肥実平は、人数が多くてはとても逃れられない、ここは自分の領地であり、頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、「今の別離は後の大幸なり。公私命を全うし、計りを外に廻らさば、盍ぞ会稽の恥を雪がざらんや」と、頼朝公に進言し、皆はそれに従うこととなった。

かくして北条時政殿と義時公は武田信義に援軍を乞うために甲斐国へ向かい、宗時殿は土肥の山から桑原に降り、平井郷に向かったが、途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしてしまうのじゃ。

しとどの窟……頼朝、梶原景時に命を救われる

源頼朝が隠れた とされる「しとどの窟」

源頼朝が隠れたとされる「しとどの窟」

大庭軍は山中をくまなく捜索した。ここで登場するのが梶原景時である。景時は、伏木の中に頼朝公が潜んでいることを知るもこれを隠し、頼朝公の命を救った。このことが縁で、景時は後に頼朝公から重用され、鎌倉幕府の宿老となる。

この件は、『吾妻鏡』より『源平盛衰記』の方が臨場感があるので、そちらを紹介しよう。

大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。

景時哀に見奉りて、暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給ひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給ひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へと申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。

景時「ここは蝙蝠ばかりで誰もいない。あちらを探そう」
景親「いやいや、ちゃんと見たのか。どれどで、わしも捜してみよう」
景時「ちょっと待て。俺を疑っているのか? 見ろよ、こんなに蜘蛛の糸がついてるじゃないか。誰かいたら、こうはならないだろう。それでも不審だから探すというのは、俺の面目が立たない」

そういって景時は景親を静止した。

景親「そんなにムキにならなくても……じゃが、やっぱり怪しい」

納得しない景親は、やおら弓を伏木の中に突っ込んで振り回してみた。頼朝公も万事休すか。このとき、奇跡が起こる。

猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からり/\と二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。深く八幡大菩薩を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はた/\と羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻に降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。 

間一髪、頼朝公は危機を脱する。やはり八幡大菩薩の御加護があったとしか思えぬな。

現在の湯河原町にある「土肥椙山巌窟」「しとどの窟」と呼ばれる岩窟が、このエピソードにまつわる伝説の地として伝わっている。「しとどの窟」の由来は、追手が「シトト」と言われる鳥が急に飛び出してきたので、人影がないものとして立ち去ったというところからきている。

この後、『吾妻鏡』によれば、頼朝公は25日、弁当を届けにやってきた箱根権現別当・行実の弟である永実の案内で箱根に逃れる。じゃが、行実と永実の弟・智藏房良暹が兄たちを裏切り、兵を集めていることを知ると頼朝公らは再び逃れ、28日には真鶴から船で安房へと向かうことになる。

宗時殿の遺言…兄との約束

北条宗時

なお、以下は蛇足ながら……

先日放送した「鎌倉殿の13人」では、片岡愛之助演じる北条宗時殿が、大泉頼朝が北条館に残していった観音像をとりに行く途中、刺客の善児に殺されてしまい、お茶の間に大きな衝撃を与えた。まさかこんなに早く退場してしまうとは知らなかったという視聴者もいたようじゃな。

わしとしては宗時殿がこれほどまで脚光を浴びたことが感無量なのじゃが、その宗時殿は義時公と別れる時、こんな言葉をかけていた。

「俺はこの坂東を俺たちだけのものにしたいんだ。西から来た奴らの顔色をうかがって暮らすのはもうまっぴらだ。坂東武者の世を作る。そしてそのてっぺんに北条が立つ。そのためには源氏の力がいるんだ。頼朝の力がどうしてもね」

三郎兄の真意に義時公は驚いていたが、結果的にこのセリフは宗時殿の遺言になる。小栗義時公の胸に、その思いはぐさりと突き刺さったことじゃろう。まさに「兄との約束」である。これは、後の北条執権政治を考える上で重要なセリフと言って良いじゃろう。

もちろん義時公を祖とする代々の北条得宗家に、この宗時殿の志が受け継がれているのじゃが、そのことをお茶の間のみなさまに知ってもらえたとすれば、もう感無量じゃよ。