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うつつなき太守による歴ヲタの備忘録

善児のモデル? 金窪行親のこと~北条義時を支えた謎多き御内人

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、源頼朝公の退場が迫ってきた。これからは北条が、義時公が鎌倉のてっぺんになっていくわけじゃ。ところで、100年以上にわたり北条得宗家を支えていくのが御内人である。今回は、得宗被官、御内人の嚆矢のひとりというべき「金窪行親」について書かせてもらおう。

北条三ツ鱗

金窪行親は善児のモデルなのか

じつは金窪行親はいま、Twitter界隈で密かに注目を集めている。「アサシン善児にはモデルがいるのでは?」という話が鎌倉クラスタの間でそこかしこで囁かれ、それが行親なのではないかといわれておるのじゃ。

オープニングのタイトルバックにその名があるだけで視聴者が恐怖するほどの の男、善児。先日も蒲殿(源範頼)を秒で誅殺して、お茶の間を震撼させた。

もちろん善児は三谷大河のオリジナルキャラ。おそらく演者の梶原善さんからとった役名じゃろう。

頼朝公と八重さんの子・千鶴丸を川に連れ出し溺死させ、その後も八重さんの前夫・江間次郎、義時公の兄・北条宗時殿、雇い主であった伊東祐親・祐清父子、上総介広常(これは幇助)、九郎殿と静御前の間に生まれた赤子、藤原秀衡六男・頼衡、そして蒲殿こと源範頼公と、つぎつぎに手を下している。現在は梶原景時に雇われているが、今後は北条に仕えることになるのはまちがいない。

現時点で行親が善児のモデルなのかどうかはなんともいえない。ただし、行親の記録をみていくと、たしかにそんな気もしてくる。

行親は生年も没年も不詳。親の名前もわからない。その名字から武蔵国金窪(埼玉県児玉郡上里町金久保)が本貫地ともいわれるが、その確証はない。『吾妻鏡』では、北条義時公の側近としてとつぜん頭角を現し、得宗被官、御内人のはじまりといえるが、行親以後、「金窪」を名乗る人物は記録に出てこない。

謎多き人物ゆえ、行親=善児説は納得感があるが、まずは『吾妻鏡』に残されている行親をみていくことにしよう。

源頼家の臣を誅殺

行親の初見は、建仁3年(1203)比企能員の変でのこと。北条が比企一族が籠る小御所を攻めたときに「金窪太郎行親」が登場してくる。義時公や泰時公、畠山重忠三浦義村和田義盛らとともに名を連ねているわけじゃから、この頃には北条被官としてそれなりに知られる男であったのじゃろう。

仍って彼(比企)の一族・郎従等、一幡君の御館(小御所と号す)に引き籠もり謀叛するの間、未の三刻、尼御台所の仰せに依って、件の輩を追討せんが為軍兵を差し遣わさる。所謂江間四郎殿・同太郎主・武蔵守朝政・小山左衛門尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・畠山次郎重忠・榛谷四郎重朝・三浦平六兵衛尉義村・和田左衛門尉義盛・同兵衛尉常盛・同小四郎景長・土肥先次郎惟光・後藤左衛門の尉信康・所右衛門の尉朝光・尾藤次知景・工藤小次郎行光・金窪太郎行親・加藤次郎景廉・同太郎景朝・新田四郎忠常已下雲霞の如し。各々彼の所に襲い到る(『吾妻鏡建仁3年9月2日条)。 

元久元年(1204)、源頼家公が伊豆で暗殺されると、その家人たちに謀反の動きがあったということで、ここでも「金窪太郎行親」が追捕に向かっている。

左金吾禅閤(頼家)の御家人等、片土に隠居し謀叛を企つ。縡発覚するの間、相州(義時)金窪太郎行親已下を差し遣わし、忽ち以てこれを誅戮せらる(『吾妻鏡元久元年7月24日条)。

伊豆市修善寺には源頼家公の墓があるが、その傍らに「十三士の墓」がある。頼家公がなくなって6日後、主君の無念を晴らそうと集った13人の男たちを、金窪行親は「忽ち以てこれを誅戮」したという。

この鮮やかな手腕は、たしかに善児をほうふつとさせる。その後、金窪行親は義時公の下で働き「兵衛尉」に出世することになる。

和田合戦で活躍

金窪行親は建暦3年(1213)年、その和田合戦の伏線ともいえる「泉親衡の乱」に、その名が登場する。

泉親衡の乱」は、信濃源氏の泉親衡が源頼家公の遺児・千寿丸を擁して、将軍実朝公への謀叛を企てたという事件じゃ。事件そのものは未然に発覚し、じつに200人あまりの逮捕者が出ている。その中に和田義盛の子の義直、義重、甥の胤長がおり、これが和田合戦につながっていく。

義盛は将軍に自身の長年の功績を理由に一族の赦免を願い出た。そのおかげで義直、義重は許されたが、胤長だけは赦免されなかった。そこで義盛は一族98人を引き連れて御所南庭におしかけたのじゃ。義盛らしい力業じゃな。

義盛(木蘭地の水干・葛袴を着す)今日また御所に参る。一族九十八人を引率し、南庭に列座す。これ囚人胤長を厚免せらるべきの由申請するに依ってなり。廣元朝臣申次たり。而るに彼の胤長は今度の張本たり。殊に計略を廻すの旨聞こし食すの間、御許容に能わず。即ち行親・忠家等が手より、山城判官行村方に召し渡さる。重く禁遏を加うべきの由、相州(義時)御旨を伝えらる。この間胤長の身を面縛し、一族の座前を渡す。行村これを請け取らしむ。義盛が逆心職而これによると(『吾妻鏡』建暦3年3月9日条)

義時公はこの圧には屈しなかった。「胤長はこの事件の張本人である」と断じ、胤長を縄で縛りあげ、一族の面前で晒したのじゃ。これは義盛には大いに屈辱だったじゃろう。このとき胤長を縛り上げて引きずり回し、二階堂行村に引き渡す役を担ったのが、御内人の金窪行親と安東忠家であった。

その後、胤長の鎌倉の屋敷は没収されることになった。ただし、当時の慣例では罪人の屋敷は一族に下げ渡されるのがふつうであった。そこで和田義盛は将軍に願い出て、代官を旧胤長屋敷に置いていた。

ところが義時公はそれを認めず、屋敷を自ら拝領してしまう。そして、このときに屋敷を分与されたのが金窪行親と安東忠家の二人であった。

相州(義時)胤長が荏柄前の屋地を拝領せらる。則ち行親・忠家に分け給うの間、前給人和田左衛門尉義盛が代官久野谷の彌次郎を追い出し、各々卜居する所なり。義盛欝陶を含むと雖も、勝劣を論ずることすでに虎鼠の如し。仍って再び子細を申すに能わず(『吾妻鏡』建暦3年4月2日条)。

行親と忠家は和田の代官を追い出してしまう。古武士の典型である義盛はこれに抗議する政治力はなく、義時と戦うことを決意したようじゃ。史家の間では、これらいつ連の仕打ちは義時公による義盛への挑発とされているが、行親は御内人として忠実に職務を遂行したというわけじゃ。

和田合戦は鎌倉を揺るがず大事件であったが、北条の勝利に終わる。このとき行親は安東忠家とともに義盛の首実検を行っている。

そして義時公が和田義盛亡き後の侍所別当になると、金窪行親はナンバー2ともいえる侍所所司に任じられ、そこで実務力を発揮している。

今日、相州(義時)左衛門尉行親を以て侍所司に定めらると。また行村・行親・忠家等に仰せ、今度の亡卒・生虜等の交名を注せらる。各々日来広くこれを尋ね記し、遂に献上せしむ所なり。御覧を歴るの後、廣元朝臣に預けらると。

行親は合戦に関わる交名をかきっちりと仕上げた。そしてこれ以後、侍所所司は得宗被官が代々受け継ぐことになり、御内人が幕政を支えていく体制ができあがっていくというわけじゃ。

阿野時元を討伐

行親は、この頃には義時公の股肱之臣として信頼されていたのじゃろう。建保6年(1218)、三浦駒若丸らが将軍御所での和歌会の最中に鶴岡八幡宮で乱闘騒ぎを起こしたときには、その糾明使となっている。

金窪兵衛尉行親を以て御使いとして、去る夜の宮寺狼藉の事を糺明せらる。これ三浦左衛門の尉義村子息駒若丸(光村これなり)張本たりと。件の宿直人と謂うは、右大将家の御時、敬神の余り恪勤(小侍と号す)等を以てこれを結番し、毎夜宮中を警固せらるる所なり。その儀今に怠らざるの処、恥辱に逢うの間、向後この事を停止すべきの由定め下さる。駒若丸に於いては出仕を止めらると。 

建保7年(1219)、阿野全成の子・時元が駿河で実朝公亡き後の将軍の座をねらって挙兵する事件が起こる。このとき、謀反軍の鎮圧を命じられたのも行親じゃ。

二品の御帳台の内に烏飛び入る。申の斜駿河の国の飛脚参り申して云く、阿野冠者時元(法橋全成の子、母は遠江の守時政女)去る十一日多勢を引率し、城郭を深山に構う。これ宣旨を申し賜わり、東国を管領すべきの由相企つと(『吾妻鑑』建保7年2月15日条)。

禅定二品の仰せに依って、右京兆金窪兵衛の尉行親以下の御家人等を駿河の国に差し遣わさる。これ安野の冠者を誅戮せんが為なり(『吾妻鑑』建保7年2月17日条) 

発遣の勇士駿河の国安野郡に到り、安野次郎・同三郎入道を攻めるの処、防禦利を失い、時元並びに伴類皆悉く敗北するなり(2月19日条)。

駿河の国の飛脚参着す。安野自殺するの由これを申す(2月23日条)。

この事件、時元は思うように兵を集められたかったらしい。そのため謀反などではなく、北条が源氏嫡流を排除するために討手を差し向け、やむなく時元は決起したという説もある。北条による陰謀というわけじゃな。

それについてはなんともいえないが、このとき、義時公と政子さまは親王将軍を迎え入れることを後鳥羽院と交渉していた。そのため反乱は速やかに鎮圧しなければならなかったことだけは確かじゃ。

しかし相手はいちおう源氏嫡流である。気が重い仕事である。そんな嫌な仕事じゃが、行親は侍所所司として職務を全うする。命じられた仕事は着実にやり遂げる。ここも善児に通じるところがあるような気がする。

嘉禄3年(1227)には、承久の乱で遠島となっていた後鳥羽上皇の遺児を詐称する謀叛人の尋問を平盛綱(「鎌倉殿の13人」の鶴丸か?)とともに担当している。  

義時公の死後は、泰時公にも使えたようじゃ。寛喜2年(1230)将軍御所に夜盗が侵入した事件では、やはり平盛綱とともに御所の警護に当たっている。

延応元年(1239)北条朝時の小見親家が五十嵐惟重の領地を押領した際には、泰時の命で小見親家の身柄を預かっている。

行親は北条得宗家を陰から支えた功労者といえる。イメージ的には梶原景時のような存在といえそうじゃな。

剣刀ヲ見ル事、既ニ彼ノ通ノ如シ

仁治2年(1241年)8月、将軍頼経の時代に、行親について面白い記録がある。どうやら行親は刀の大家で、不思議な力をもっていたようじゃ。

鶴岡の放生会なり。将軍家御出で。御車に差手之期に及び、 兵庫頭 御釼を取り、上総式部丞時秀に 授けんと欲する之處、 御釼簀子之上に抜け落ちる。これ両人の失礼に非ず、時の怪異なり。仍って暫く御出の儀を抑えられ、金窪左衛門大夫行親を召しこれを尋ね問わる。行親申して云く、人物に相応せず。神宝たるべきの故今この事有りと。行親剱刀の事を見て、既に通を得るが如し。多く以てその證を顕わす。而るにこの御剱に就いて、先日御夢想の告げ有り。忽ち以て符合せしむ。旁々御信心を催すに依って、時秀を以て件の御剱を走湯山に奉らる(『吾妻鏡』仁治2年8月11日条)。

鶴岡八幡宮放生会でのこと。将軍頼経が牛車に乗り込むにあたり、藤原定員が太刀を取り、太刀持ち役の上総時秀に渡そうとした。ところが、刀が鞘から抜け、地面に落っこちてしまった。

これは失態ではなく、何か怪しい力が働いたのではないか? そこで刀の大家である金窪行親に説明を求めたというのじゃ。

行親は「人と物とは話はできません。ただし、刀は神宝ですから、これはきっとなんらかの神のお告げでしょう」

行親は刀の鑑定に通じており、これまでも予言を的中させてきた。今回の一件についても行親は夢のお告げですでに知っていたという。これを聞いた頼経や周囲の者は信心深く、刀を走湯神社伊豆山神社)へ奉納することにしたというのじゃ。

行親は「剣刀ヲ見ル事、既ニ彼ノ通ノ如シ」といわれた人物。北条の命で鎌倉を脅かす者をつぎつぎに排除、誅殺した行親には、不思議な力が宿っていたようじゃな。

なお、この記述を最後に、行親は歴史から消えている。その子孫についてもさっぱりわからない。こうした謎がまた、善児のモデルといわれるゆえんなのかもしれぬな。「鎌倉殿の13人」での善児が今後どう描かれていくかが楽しみじゃな。

そして、これからは小四郎の周囲にいる郎党にも注目していきたい。