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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

源義経の「腰越状」を超訳してみた

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、菅田将暉さんの九郎判官こと義経殿がやばいといわれている。しかし、兄弟の思いがすれ違っていくことに、やっぱりわしは涙を禁じ得ない。そこで、九郎殿が頼朝公に宛ててその思いを綴った「腰越状」を超訳しながら、その思いを読みとってみたいと思う。

源義経

腰越状」とは

平家を壇ノ浦で滅ぼした九郎殿は、平宗盛・清宗父子を護送して鎌倉に凱旋する。じゃが、頼朝公は九郎殿に不信をもち、鎌倉入りを許さず、腰越に止めおかれた。元暦2年5月24日(1185年6月23日)、九郎殿は満福寺にとどまり、一通の嘆願状をしたためる。これが「腰越状」じゃ。

九郎殿が頼朝公の怒りを買った原因は、許可なく朝廷から官位を受けたこと、軍監・梶原景時の意見を聞かず独断専行で物事を進めたことがあげられる。

とくに重大だったのが、頼朝公の許可無く官位を受けたことである。九郎殿は後白河法皇の覚えめでたく、院御厩司に補任され、平氏の捕虜である平時忠の娘を娶った。義経の声望が武士達の人心を集めることは、武家の棟梁である「鎌倉殿」の立場を揺るがしかねない大問題であったのじゃ。

このあたりの頼朝公の心は九郎殿にはとんとわからない。源氏再興のために平家を滅ぼし、功名をあげ、凱旋してきた自分がなぜ疎まれるのか。これは梶原景時の讒言に相違ない。そう考えたわけじゃな。

かくして、九郎殿は自らの思いを兄・頼朝公に訴えるべく、大江広元を通じて「腰越状」を差し出したというわけじゃ。

腰越状」の書き下しと超訳

ということで、以下、「腰越状」の書き下し分と現代語訳を紹介する。まあ、大体はあっていると思うが、おかしなところがあってもノークレームで許してほしい。なんぜ、超訳じゃからな。

左衛門少尉源義経、恐れながら申し上げ候。意趣は、御代官のその一に撰ばれ、勅旨の御使として朝敵を傾け、累代弓箭の藝を顕わし、会稽の恥辱をそそぐ。抽賞を被るべきのところ、思いのほかに虎口の讒言によって、莫大の勲功を黙止せらる。義経犯すことなくして咎を被る。功ありて誤りなしといへども、御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。

左衛門少尉源義経、お恐れながら申し上げます。私がまず言いたいのは、兄上の御代官の一人として撰ばれ、勅旨により朝敵を退け、代々の弓馬の芸をもって亡き父上の汚名を晴らしました。だからてっきりお褒めいただけるものとばかり思っていたのですが、どこぞのだれかの思いも寄らぬ「讒言」のせいで、私があげたたくさんの勲功を御前で披露することが許されず、おまけに無実なのに咎めを受けることとなってしまいました。この義経には武功はあっても過ちなどありません。兄上の御勘気を蒙り、空しくて涙に血が滲む思いでおります。

つらつら事の意を案ずるに、良薬口に苦く、忠言耳逆ふとは、先言なり。これによって、讒者の実否を糺されず、鎌倉中に入れられざるの間、素意を述ぶるに能はず、いたずらに数日を送る。この時に当りて、永く恩顔を拝したてまつらず、骨肉同胞の儀すでに空しきに似たり。宿運の極まるところか。はたまた先世の業因を感ずるか。悲しいかな。

つらつらと事の真相を考えてみますれば、「良薬は口に苦し」「忠言は耳に逆らう」という先人の言葉がありますよね。讒言が真実か否かの質疑もなされず、私は鎌倉に入ることを許されず、真意を語ることもできず、いたずらに日々を過ごしております。いま、兄上の御顔を拝見することもできぬまま、親兄弟一族の絆も空しいものになってしまっています。私の運命はここに極まってしまったのでしょうか。これは前世の業の報いとなのでしょうか。悲しくてどうしようもありません。

この条、故亡父の尊霊再誕したまはずんば、誰人か愚意の悲歎を申し披き、いずれの輩か哀隣を垂れんや。事新しき申状、述懐に似たりといへども、義経身体髪膚を父母に受けて、幾時節を経ず、故頭殿(源義朝)御他界の間、みなし子となりて、母の懐中に抱かれ、大和国宇多郡龍門の牧に赴きしより以来、一日片時も安堵の思いに住せず、甲斐なき命の許に存りといへども、京都の経廻難治の間、諸国に流行せしめ、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖となして、土民百姓等に服仕せらる。

こうなると、亡き父上の御霊が甦ってくださること以外、いったいだれが私の悲嘆を申し開いてくれるでしょうか。憐れんでくれるでしょうか。今さら言うことでもないですし、単に述懐に過ぎないと思われるかもしれませんが、この義経は身体髪膚を父母にいただいて間もなく父が亡くなり、孤児となって母に抱かれて、大和国の宇多郡龍門の牧に赴いて以来、一日たりとも心安らぐ日はありませんでした。甲斐無き命を長らえるばかりとはいえども、京都の周りで暮らすこともできず、諸国を流浪し、所々に身を隠し、辺土遠国に住むために土民百姓などに召し使われ、これまでどうにか生きのびてきたのです。

しかれども幸慶たちまちに純熟して、平家の一族追討のために上洛せしむるの手合に、木曽義仲を誅戮するの後、平民を責め傾けんがために、ある時は峨々る巖石に駿馬を鞭打ち、敵のために命を亡ぼすことを顧みず、ある時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈め、骸を鯨鯢の鰓に懸くることを痛ましくせず。しかのみならず甲冑を枕となし、弓箭を業となす本意は、しかしながら亡魂の憤りを休めたてまつり、年来の宿望を遂げんと欲するの他事なし。

それでもわが運気、好機たちまち熟して、平家追討の一人に選ばれて上洛した後は、すぐに木曽義仲を討ち、平家を攻め、ある時には険しい岩山を駿馬とともに駆け、命を惜しまず戦いました。大海の波風の難を耐え凌ぎ、身を海底に沈めて鯨の餌になることも恐れずに戦いました。このように夜に甲冑を枕とし、昼に弓を持って戦ったのは、亡き父上の御霊を鎮めるという年来の宿望以外に、いかなる望みもありません。

あまつさへ義経五位の尉(検非違使)に補任の条、当家の面目、希代の重職、何ごとか、これに加えんや。しかりといへども、今愁へ深く嘆き切なり。佛神の御助けにあらざるよりのほかは、いかでか愁訴を達せん。これによって、諸神諸社の牛王宝印の裏をもって、全く野心をさしはさまざるの旨、日本国中大小の神祗冥道を請じ驚かせたてまつり、数通の起請文を書き進ずといへども、なほもって御宥免なし。それわが国は神国なり。神は非礼をうくべからず。

ましてこの義経が、朝廷より五位の尉に任ぜられたことは、当家の誉れと思い重職をお受けしましただけで、他意は何もありません。それなのに今、私は深く愁い、嘆きの気持ちでいっぱいです。こうなった以上、神仏にすがるしか、この思いをお伝えする方法がありません。諸寺諸社の牛王宝印の裏に書き付け、私には野心などないことを全国の神仏に誓う起請文として、兄上にお渡ししました。それなのに、今もってお許しをいただけておりません。わが国は神国です、神は非礼を嫌うものではありませんか。

憑むところは他にあらず、ひとへに貴殿の広大の御慈悲を仰ぐ。便宜を伺ひて高聞に達せしめ、秘計をめぐらされて、誤りなきの旨を優ぜられ、芳免に預らば、積善の余慶を家門に及ぼし、永く栄花を子孫に伝へん。よって年来の愁眉を開き、一期の安寧を得んこと。書詞に書きつくさず、あはせて省略せしめ候ひおはんぬ。賢察を垂れられんことを欲す。

義経 恐惶謹言

元暦二年五月日 左衛門少尉義経 進上

もはやこの義経が頼む所はありません。ただただ貴殿(大江広元)の慈悲の心にすがるだけです。どうか、私の真意を兄上に伝えてください。兄上に私が誤りなきことを申し伝えてください。それでもし、私が御赦免になった暁には、貴殿はその善行によって一族は栄え、子々孫々に栄華が伝えられることでしょう。私も年来の愁眉を開き、安寧の日々を手にすることができます。我が真意をすべて書き尽くすことはできませんので、これ以上は申し上げませんが、どうかわが胸中をご賢察ください。義経畏れながら謹んで申し上げます。

義経は何もわかっていなかった

じつはこの「腰越状」については、九郎殿が書いた原文ではないという疑義がある。というのも、九郎殿の検非違使(五位衛門尉)任官は頼朝公が認めていたという説もあるうえ、そもそも「当家の面目、希代の重職」というほどのものでもない。そのため九郎殿が書いた原文があったとしても、かなりの虚飾が加えられているというのが定説じゃ。

さらにうがった説としては、後世、吾妻鏡の編纂者(要するに幕府)が、頼朝公の冷淡さを強調し、北条の正当性を暗にもちあげるために捏造したという見方すらある。

ちなみに「鎌倉殿の13人」では、この「腰越状」は、兄弟の不仲を打ち明けてきた九郎殿をみるにみかねて、平宗盛が代筆したという設定になってた。これにはわしも「さすが、三谷幸喜!」と唸ったぞ。

まあ、そのことはとりあえず置いておくとして、この中身を吟味してみると、九郎殿の心の内が切々と表現されておる。まさに判官贔屓、悲運の九郎殿を感じさせ、涙を禁じ得ない内容ではある。じつさい、九郎殿に頼朝公に対する謀叛の心など、あったはずもない。

じゃが、頼朝公はそうは思わなかった。この文には「俺は兄上の命令に従ってがんばってきたのに、だれかが俺の悪口をいったせいで、ほめられるどころか、怒られてしまい、たいへん悲しい。兄上に逆らう気なんてありませんので、わかってください」と書いてあるだけだから、頼朝公は「わかってねぇな、こいつ」と思ったことじゃろう。

平家亡き後、頼朝公にとって警戒すべきは、なんといっても同じ源氏の嫡流の血をひく身内。いつ九郎殿が担ぎだされて、自分に対抗してくるかわかったものではない。それなのに、勝手に後白河法皇におだてられ官位をもらって喜んでいるようでは、危なっかしくてみてられない。

どうせ詫びるなら頭を丸めるとか、一族郎党にいったん暇を出すとか、自分が兄の脅威にはならないことを身を以て示せばよかったのじゃ。九郎殿の周囲に、そういう助言ができる者はいなかったのじゃろうか。いや、たとえだれかがアドバイスをしたところで、九郎殿はそれを受け入れることはできなかっただろう。九郎殿もまた源氏の御曹司、ひとりのプライドあるもののふじゃからな。

吾妻鏡』の元暦2年6月9日条には、誰に語ったものなのか、「その恨みすでに古の恨みよりも深し」という九郎殿の心中が記されている。

廷尉日来の所存は、関東に参向せしめば、平氏を征する間の事具に芳問に預かり、また大功を賞せられ、本望を達すべきかの由思い儲くの処、忽ち以て相違す。剰え拝謁を遂げずして空しく帰洛す。その恨みすでに古の恨みより深しと。

「その恨みすでに古の恨みよりも深し」とまで思いつめた九郎殿。京へ戻るにあたっては、「関東において怨みを成すの輩は義経に属すべき」と、覚悟を決めたと伝えられている。 

けっきょく九郎殿は空しく京へ戻り、奥州へと落ち延びていく。そして、それから4年後、九郎殿が鎌倉へ帰ってきたときには、首だけになってしまっうのじゃが、そのお話は、こちらを読んでもらえれば幸いじゃ。

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