闘犬乱舞。北条高時ブログじゃ

うつつなき太守による歴ヲタの備忘録

源範頼の起請文と悲運の最期〜蒲殿はなぜ殺されたのか?

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、菅田将暉さん演じる源義経がいかにも「やばいやつ」として注目されているな。それに比べて対照的に、実直でなかなか「よい人」として描かれているのが迫田孝也さん演じる源範頼じゃ。そこで今回は、蒲殿こと源範頼殿についてあれこれ書いてみたいと思う。

源範頼像。横浜市金沢区 太寧寺所蔵

源範頼像(横浜市金沢区 太寧寺所蔵)

源平合戦で「大将軍代理」として活躍した源範頼

源範頼殿は遠江国蒲御厨で生まれ育ったので「蒲殿」または「蒲冠者」。母は遠江国池田宿の遊女とされる。父・義朝が敗死した平治の乱では蒲殿の存在は確認されておらず、密かに養われていたところ、公家の藤原範季に養育されることとなり、以後は「範頼」と名乗ったらしい。

いっぽうで、比企氏の庇護により、武蔵國で成長したという説もある。現在の吉見町大字御所地内の息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と地元では伝えられている。まあ、蒲殿の室は安達盛長の娘じゃから、何か縁がありそうな気はするな。

蒲殿がいつから頼朝公に合流したのか、これもはっきりしない。じゃが、「吾妻鏡」によれば、寿永2年(1183年)2月、常陸国志田義広が鎌倉に進軍してきた野木宮合戦に、蒲殿は援軍として出撃している。

吾妻鏡」は蒲殿について、「私の合戦を好み太だ穏便ならざるの由仰せらる」と記している。また「源平盛衰記」では凡将、無能と記されている。「平家物語」でも、義経殿の武勲を引き立てるためか、あまりよくは描かれていない。

そうしたこともあって、蒲殿はマイナーな存在になってしまっておる。しかし、蒲殿は頼朝公の「大将軍代理」として木曽義仲、さらには平家追討の軍を率いて九州で戦果をあげている。

独断専行が過ぎた義経殿とは対照的に、頼朝公に遠征先からこまめに報告をおこない、その都度、指示を仰ぐといった実直な仕事ぶりに、頼朝公の心証もよかったようじゃ。蒲殿は三河守に任じられ、鎌倉へ帰還した後は、父・義朝殿の供養のための勝長寿院落慶供養では源氏一門の列に並んでいる。建久元年(1190)11月の頼朝公上洛では、任大納言の拝賀で前駆をつとめるなどの栄に浴し、頼朝公から厚い信頼を寄せられておったように見受けられる。

それなのに、どうにもつまらぬことから蒲殿の運命は暗転してしまうのじゃ。

息障院(伝範頼館跡)

息障院・伝範頼館跡(埼玉県吉見町)

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謀反の嫌疑をかけられ、起請文を記す

建久4年(1193年)5月28日、有名な曽我兄弟の仇討ちがおこると、鎌倉には頼朝公が討たれたという誤報が入った。『保暦間記』によるると蒲殿は、政子さまのところを訪ねて。「後にはそれがしが控えておりまする!」と励ましたんじゃが、後にこれを聞いた頼朝公は、蒲殿に謀反の心あり、と断じたというのじゃ。そんな程度のことで謀反を疑うというのは、頼朝公もものすごい猜疑心じゃが、あるいは周囲の誰かが良からぬ讒言でもしたのかもしれぬな。

あわてた蒲殿は頼朝公への忠誠を誓う起請文を送る。

敬立して申す
起請文の事

右御代官として、度々戦場に向かいをはんぬ。朝敵を平らげ愚忠を盡くしてより以降、全く貳無し。御子孫の将来たりと雖も、また以て貞節を存ずべきものなり。且つはまた御疑い無く御意に叶うの條、具に先々の厳札に見えたり。秘めて箱底に蓄う。而るに今更誤らずしてこの御疑いに預かること、不便の次第なり。所詮當時と云い後代と云い、不忠を挿むべからず。早くこの趣を以て子孫に誡め置くべきのものなり。万が一にもこの文に違犯せしめば、上は梵天帝釈、下界は伊勢・春日・賀茂、別して氏神八幡大菩薩等の神罰源範頼が身に蒙るべきなり。仍って謹慎起請文を以て件の如し。

建久四年八月日
参河の守源範頼 

「自分は全く背く心は持っていませんし、子孫の代になったとしても忠義を尽くすつもりでいます。お心に従うべく礼節を尽くし、忠義を心に秘めて尽くしてまいりました。それなのに、何も間違いはしていないのに、この嫌疑をかけられてしまい、困りきっています。現在もこれからも不忠の思いなどありません。わが子孫にも言い残します。万が一にも約を違えたならば、梵天帝釈天伊勢神宮春日大社賀茂神社、源氏の氏神八幡大菩薩神罰源範頼の身に当てられるでしょう。そういうこといで謹慎のうえ、誓の起請文を書きました」 

蒲殿の真心が伝わる起請文ではないか。じゃが、頼朝公はこの起請文にカチンときた。差出人として「源範頼」と源姓を名乗ったことが、「貴様ごとき、遊女の息子が源姓を名乗るとは図々しい!」と、頼朝公の怒りの火に油を注いでしまったのじゃ。

思わぬ事態に狼狽し、嘆き悲しむ蒲殿。すると、それをみるにみかねた家人が頼朝公の寝所の床下に潜入して探りをいれにいったんじゃ。けれど、それが見つかってしまい、「暗殺を企てた」との嫌疑をかけられて、ついに蒲殿は伊豆国へと配流、そして殺されてしまったんじゃよ。

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伊豆に幽閉され悲運の最期を遂げる

源範頼の墓(伊豆市)

源範頼の墓(伊豆市

伊豆国修禅寺に幽閉された蒲殿のその後について、「吾妻鏡」には何も記されていない。じゃが、「保暦間記」には、範頼の家人らが館に籠もって不審な動きを見せたので、結城朝光、梶原景時仁田忠常らが討伐したと書かれている。

また「吾妻鏡」には、曾我兄弟の異父兄弟にあたる原小次郎という人物が、範頼の縁座として処刑されたことが記録されている。このあたりに、蒲殿が疑われた原因がなに隠されているのかもしれない。

じっさい、曽我兄弟の仇討ちついては、相模の御家人が北条氏ばかりが厚遇されているのを不満にもち、蒲殿を担いで頼朝公と時政公を排除しようとしたという説もある。この時期、岡崎義実とか大庭景義がとつぜん出家したりしているしな。

あるいは、曽我兄弟の仇討は、北条時政殿が烏帽子親となった曽我時致をつかって、頼朝公を暗殺しようとしたものの失敗し、その罪を蒲殿になすりつけたという人もいる。さすがにそれは陰謀論過ぎると思うが、曽我兄弟の仇討をめぐっては、さまざまなことが言われておる。

はたして真相はどうであったのか、いずれにせよ、権力闘争とは恐ろしいものじゃな。

蒲殿、源範頼は生き延びた?

蒲殿の墓は伊豆市修禅寺温泉場西北側の山腹にある。ただ、蒲殿の最期には越前へ落ちのびて生涯を終えたとか、武蔵国に逃れて隠れ住んだとか、異説がいくつかある。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされる。

武蔵国の吉見観音周辺は現在、吉見町大字御所という地名であり、吉見御所と尊称された範頼にちなむと伝えられている。『尊卑分脈』『吉見系図』などによると、範頼の妻の祖母で、頼朝の乳母でもある比企尼の嘆願により、子の範圓・源昭は助命され、その子孫が吉見氏として続いたとされている。

また、三浦半島の「追浜」の地は、修善寺を脱出した蒲殿が追われるようにして浜にたどりついたことから、そう呼ばれるようになったともいわれておる。

横浜市金沢区にある太寧寺には、蒲殿の墓と伝わる五輪塔がある。蒲殿は密かに浦郷鉈切(横須賀市)まで逃れたが、鎌倉に知られてしまい、当時瀬ヶ崎にあった太寧寺で自害したと伝えられている。太寧寺の名は蒲殿の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」にちなんだもので、蒲殿の位牌もあるという。

まあ、チンギス・ハーンになった九郎殿比べると地味ではあるが、それもまた実直な蒲殿らしいともいえるかもしれぬ。

太寧寺

太寧寺(横浜市金沢区

伝源範頼の墓(大寧寺)

源範頼の墓(横浜市金沢区 大寧寺

閑話休題、これまでほぼほぼ存在が無視されてきた蒲殿じゃが、「鎌倉殿の13人」ではなかなかの人物として描かれている。義経殿とは対照的に、実直でまじめな人柄は好印象で、とてもこの人が謀反を起こすなどとは考えられない。曽我兄弟の仇討とからんで、知らず知らずはめられていくのであろうが、はたしてどのような展開になるのか。

あとあと、「蒲殿が存命だったなら…」となるような気がするのじゃが。もっとも、北条にとっては、蒲殿がいないほうがいろいろと好都合だったかもしれん。それゆえ、時政殿あたりが暗躍したのではないかといわれてしまうのじゃが、まあ、今回は「ぜんぶ大泉のせい」ということで。