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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

新宮十郎・源行家のこと~弁舌鮮やかだけど、やっぱり疫病神の叔父上さま

源行家。彼を味方をつけた者は、必ず負けるという死神のような男。鎌倉方に捕まり、首をはねられるのは、これより少し後のこと」……。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、長澤まさみさんのナレーションでけちょんけちょんの評価を受けた杉本哲太さん演じる源行家。「そこまでいわなくても」と言ってあげたいが、実際そうなんじゃよな。ということで、今日は新宮十郎こと源行家についてじゃよ。

源行家

源行家WikiPedia平家物語絵巻』林原美術館所蔵)

新宮十郎こと源行家の出自

源行家は、永治年間から康治年間の初め、源為義の十男として生まれた。母親の名は伝わっていないが、新宮の神官・鈴木重忠の娘という説と、熊野別当の娘という説があり、はっきりしたことはわからない。

新宮市のHPによると、後白河院の熊野御幸に源為義検非違使として随行したとき、熊野別当・長快の娘をみそめて一女一男をもうけたとある。

姉の丹鶴姫(のちの鳥居禅尼・たつはらの女房)は、第18 代熊野別当湛快の妻となって男児を産み(第21代別当湛増)、夫の死後は19代別当・行範(鳥居法眼)のもとに再嫁したという。弟の行家もまた新宮に育ち、熊野別当の庇護のもとで成長したのじゃろう。

平治物語』には、行家が平治の乱源義朝方として参戦したとあるが、それを裏付ける同時代史料はない。なので、行家が歴史の表舞台に出てくるのは、摂津源氏源頼政の挙兵のときである。

頼政以仁王の令旨を受けて平家打倒の兵を挙げるが、その令旨を諸国源氏に伝達する使者として行家を起用する。行家は血筋がよく弁舌も鮮やか。熊野の山伏のネットワークも期待できる。まさに、うってつけの役割ではある。

ちなみに、行家の初名は「義盛」じゃったが、熊野別当・行範との縁を活用するのが得策と考えたのか、このときに「行家」と改名する。そして八条院蔵人に補された行家は、令旨を携え、山伏姿で諸国の源氏を糾合する役割を果たすことになる。

以仁王の令旨

吾妻鏡』には、その令旨の内容が記されている。

下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏並びに群兵等の所
早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討すべき事

右前の伊豆守正五位下源の朝臣仲綱宣べ、最勝親王の勅を奉って称く、清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て、凶徒を起こし国家を亡ぼす。百官万民を悩乱し、五幾七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪す。命を断ち身を流し、淵に沈め楼に込む。財を盗み國を領し、官を奪い職を授く。功無くして賞を許し、罪非ずして猥りに過に配す。或いは諸寺の高僧を召し誡め、修学の僧徒を禁獄す。或いは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮米に相具し、百皇の跡を断つ。抑も一人の頭、帝皇を違逆し、佛法を破滅す。古代を絶する者なり。時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う。仍って吾は一院第二の皇子たり。天武皇帝の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討し、上宮太子の古跡を訪い、仏法破滅の類を打ち亡ぼさん。ただ人力の構えを憑むに非ず。偏に天道の扶けを仰ぐ所なり。これに因って、帝王三宝神明の冥感有るが如し。何ぞ忽ち四岳合力の志無からん。然れば則ち源家の人、籐氏の人、兼ねて三道諸国の間、勇士に堪うる者、同じく輿力せしめ、清盛法師並びに従類を追討すべし。もし同心せざるに於いては、配流追禁の罪過に行うべし。もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに随い勧賞を賜うべきなり。諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。

治承四年四月九日
前の伊豆守正五位下朝臣仲綱

令旨は壬申の乱における天武天皇の前例に倣い、王位簒奪を謀る平清盛とその一族を追討するため、東海、東山、北陸の三道諸国の源氏に決起を促す内容である。令旨を携えた行家は、源氏一門としてさぞや得意満面であったことじゃろう。

行家と源頼朝

治承4年(1180)4月27日、行家はまず、伊豆に流されていた源頼朝公を訪れている。

高倉宮の令旨、今日前の武衛将軍伊豆の国北條館に到着す。八條院の蔵人行家持ち来たる所なり。武衛水干を装束し、先ず男山の方を遙拝し奉るの後、謹んでこれを披閲 せしめ給う。侍中は、甲斐・信濃両国の源氏等に相触れんが為、則ち首途すと(『吾妻鑑』治承4年4月27日条)。

このとき頼朝公は、水干の装束をつけ、男山八幡宮に向かって遥拝してから令旨に目を通したという。ふたりは同じ源氏で叔父甥の関係じゃ。どのうような会話がなされたかは、ざんねんながら記されていない。このとき行家は、甲斐信濃の源氏へ決起を促すために、すぐに旅立ったとある。

ちなみに『吾妻鏡』には、この後、令旨を読んだ頼朝公がこれを天命と受け止め、「義兵を挙げんと欲す」と決意を固めたとある。そして密かに令旨を舅の時政殿にみせ、天下草創の大戦がはじまることになる。

甥の頼朝公に決起を促した行家は、その後は独立勢力として活動する。じゃが、この男は弁は立つが戦はからっきしダメだったようじゃ。

養和元年(1181年)、尾張国の墨俣川で平家に奇襲をかけるが大失敗して遁走。このとき頼朝公の異母弟・義円をはじめ、源氏一門が多く討死している。体勢を立て直すべく三河国矢作川に向かうが、そこでも平家に敗れ、壊滅的な敗北を喫している。

その後、行家は相模国松田郷に住み着いたが、このとき頼朝公に所領を要求して断られている。このシーンは大河ドラマでも描かれていたが、杉本行家の言い分に大泉頼朝があきれかえって門残払いしておったな。

行家はこの後、同じく甥の木曾義仲を頼る。のちに木曽義仲は頼朝公と対立することになるが、行家を庇護したことは、その遠因になったといえよう。まさに死神、疫病神である。

杉本哲太さん演じる源行家

杉本哲太さん演じる源行家

木曾義仲と行家

木曾義仲の下に逃げ込んだ行家は、能登国の志保山の戦いに参加し、上洛戦では伊賀方面から兵を率いて進攻している。もちろん、行家自身は大した戦いをしたわけでもない。むしろ行家の本領発揮は京にのぼった後である。

義仲とともに入京した行家は、後白河院の前で義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁したという。叔父としてのプライドが、義仲の風下に立つのをよしとしなかったのじゃろうか。

今日、義仲・行家等、南北 義仲は北、行家は南より京に入る。晩頭、左少弁光長来たりて語って云く、義仲・行家等を蓮花王院の御所に召し、追討の事を仰せ遣わさる。大理殿上の縁においてこれを仰す。彼の両人地に跪きこれを承る。御所たるに依ってなり。参入の間、彼の両人相並び、敢えて前後せず。爭か権の意趣これを以て知るべし。(『玉葉』 寿永2年7月18日)

その後の朝議では、「勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家」という決定がなされ、行家も従五位下・備後守に叙任された。戦に負け続けた行家であり、これは妥当なものと思われるが、自尊心の高い行家は「義仲に比べて恩賞が少なすぎる!」と不満を述べる( 「伝聞、行家厚賞に非ずと称し忿怨す。且つはこれ義仲の賞と縣隔の故なり。閉門辞退すと」:『玉葉』寿永2年8月12日条)。

山村育ちで無骨な義仲とは異なり、行家は弁舌が得意である。行家は法皇の双六の相手をして、院に巧妙にとりいり、首尾よく備前守に遷任され、さらに平家没官領のうち90か所余りを与えられている。また、自分を持ち上げるために、義仲の悪口を院に吹き込んだのであろう。

平家物語』によれば、行家は平家追討戦のため西下している義仲を讒奏したらしい。ところが、これが木曾軍の京留守居役であった樋口兼光を通じて、義仲にバレてしまう。

義仲はすぐさま山陽道から京に引き返してくる。すると行家は義仲から逃げるために丹波路から播磨に下って、申し訳程度に平家軍と戦う。もちろん負け戦じゃが、行家も本気で戦っているわけではなかろう。

やがて義仲が後白河院と衝突すると行家は和泉へと向かう。そして鎌倉から上洛してくる義仲追討軍にすり寄るが、義仲の将・樋口兼光に追われて、紀伊へと逃走する。この男、変わり身も早いし逃げ足も速いのじゃ。

源義経と行家

木曾義仲が討たれると、行家は元暦元年(1184)2月、院のお召しによって帰京している。しかし、鎌倉軍による平家追討に参加することはなかった。そして、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しても、鎌倉の配下になることを拒んでいた。元暦2年(1185)、頼朝公は行家に謀反の疑いがあるとして佐々木定綱に追討を命じた。

前の備前の守行家は二品(頼朝)の叔父なり。而るに度々平氏の軍陣に差し遣わさると雖も、終にその功を顕わさざるに依って、二品強ち賞翫せしめ給わず。備州また進んで参向無し。当時西国に半面し、関東の親昵を以て、在々所々に於いて人民を譴責す。しかのみならず、謀反の志を挿み、縡すでに発覚すと。仍って近国の御家人等を相具し、早く行家を追討すべきの由、今日御書を佐々木の太郎定綱に下さると(『吾妻鑑』元暦2年8月4日条)

その後、鎌倉と不和になった九郎殿が、京で行家と組んで謀反を企てているという風聞が流れる。頼朝公はその動静を探らせるため梶原景季を京に遣わし、九郎殿に行家の逮捕誅殺を求めた。ところが、九郎殿はこれを病と称して断ってしまう。

義経の思う所は、縦え強竊の如き犯人たりと雖も、直にこれを糺し行わんと欲す。況や行家が事に於いてをや。彼は他家に非ず。同じく六孫王の余苗として弓馬を掌り、直なる人に准え難し。家人等ばかりを遣わしては、輙くこれを降伏し難し。然かれば早く療治を加え平癒の後、計を廻らすべきの趣披露すべきの由と。 

九郎殿は「たとえ犯罪人であっても直に取り調べを行いたい。まして行家は同じ六孫王の子孫である」というのじゃ。これにより頼朝公は怒り心頭で、九郎殿が行家と共謀していると断じ、土佐坊昌俊を刺客に送り込むのじゃ。

土佐坊が九郎殿の堀川邸を襲撃すると、行家も駆けつけてこれを撃退している。そして10月、九郎殿と行家は後白河院から頼朝追討の院宣を受けることに成功するのじゃ。

壬戌去る十一日並びに今日、伊豫大夫判官義経潛かに仙洞に参り奏聞して云く、前の備前の守行家関東に向背し謀叛を企つ。その故は、その身を誅すべきの趣、鎌倉の二品卿(頼朝)命ずる所、行家の後聞に達するの間、何の過怠を以て無罪の叔父を誅すべきやの由、欝陶を含むに依ってなり。義経頻りに制止を加うと雖も、敢えて拘わらず。而るに義経また平氏の凶悪を断ち、世を静謐に属かしむ。これ盍ぞ大功ざらんか。然れども二品曽てその酬いを存ぜず、適々計り宛てる所の所領等、悉く以て改変す。剰え誅滅すべきの由、結構の聞こえ有り。その難を遁れんが為、すでに行家に同意す。この上は、頼朝追討の官符を賜うべし。勅許無くんば、両人共自殺せんと欲すと。能く行家の鬱憤を宥むべきの旨勅答有りと(『吾妻鏡』文治元年10月13日条) 

九郎殿はすっかり行家贔屓になってしまったようじゃが、このあたり、仲間思いの九郎殿に巧みにすり寄る行家は流石である。

行家の最期

後白河院から頼朝追討の院宣を得た九郎殿と行家は、四国九州に渡り、鎌倉に対抗しようとした。じゃが、九郎殿や行家に与する者はいなかった。途中、同族で摂津源氏多田行綱らの襲撃を受けこれを撃退するも、大物浦では暴風雨にあって西国渡航に失敗する。

このとき、行家は九郎殿と袂を分かち、和泉国日根郡近木郷の在庁官人・日向権守清実の屋敷(のちの畠中城)に潜伏する。しかし、翌文治2年(1186年)5月、密告により幕府の命を受けた北条時定(時政殿の甥)に捕まり、山城国赤井河原にて長男・光家、次男・行頼とともに斬首されてしまう。

ちなみに大河ドラマでは菅田将暉義経が挙兵したものの兵が集まらず、杉本哲太行家が「おまえの戦に義がないからじゃ。挙兵はならぬと申したのに」「おまえを信じた、わしが愚かだった」と発言。「叔父上が言いますか!」と菅田義経があっけにとられるシーンがあったが、じっさいもあんな感じだったんじゃろう。 

義円、義仲、義経と、行家叔父上に合力、同乗した人はみんな不幸になる。これでは長澤まさみさんに「死神」といわれても仕方がないわな。賢い頼朝公はそれを見抜いておったということじゃ。

ちなみに、行家の姉であり、頼朝公の叔母にあたる鳥居禅尼は、源平合戦後、紀伊国佐野庄(新宮市佐野)、但馬国多々良岐庄(現兵庫県朝来町多々良木)の女地頭に任命され、鎌倉から厚遇を受けている。平家との戦いには熊野水軍も参戦しているが、これは行家ではなく鳥居禅尼の功績によるものであろう。承元元年(1207)には熊野を参詣した北条政子さんの訪問もうけて、承久の乱(1221)後にその生涯を終えたそうじゃ。

行家もお姉さんと一緒に行動していればよかったかもしれないのう(そうすると鳥居禅尼が不幸になったかもしれんがな)