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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

三浦義澄のこと~源頼朝の旗揚げを支えた三浦党の領袖

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく企画の11人目は三浦義澄のこと。ドラマで演じるのは佐藤B作さんじゃ。同じ三浦党の和田義盛をはじめ、鎌倉開府に尽力した坂東武者はどうも猪突猛進の印象があるが、三浦義澄は分別ある年の功のイメージもあるので、佐藤B作さんのキャスティングは、ぴったりかもしれんな。

勝川春亭画「三浦大介義明、三浦別当義澄」

勝川春亭画「三浦大介義明(右)、三浦別当義澄(左)」

三浦義澄の出自

三浦氏は桓武平氏の流れをくむとされ、為通、為継、義継、義明を経て、義澄に至る。

三浦為通については実在を疑う人もいるようじゃが、通説では平良文の孫である平忠通の子とされている。

三浦為通の代に初めて「三浦」の苗字を名乗ったという。三浦半島日本書紀で「御浦」(みうら)、万葉集では「御宇良崎」(みうらさき)と記されておる。為通は前九年の役で武功を挙げ、源頼義公から相この地を領地として与えられ、苗字として採用したというわけじゃな。

さて、三浦義澄は相模国三浦郡矢部郷の出身じゃ。具体的な時期は不明じゃが、上総常澄の加冠によって元服し、義澄と名乗ったという。兄弟姉妹には、杉本義宗、大多和義久、佐原義連、多々良義春、長井義季、杜重行、源義朝公側室、畠山重能室、金田頼次室、長江義景室がいる。

平治の乱では源義平殿に従って上洛し、平重盛との待賢門の戦いでは源氏十七騎の一人として活躍している。しかし、利あらずして敗れ、京都から郷里に落ち延びた。やがて兄の杉本義宗が没すると、義澄は三浦氏の家督を継ぐ。ちなみに、杉本義宗の長男が、同じ「鎌倉殿の13人」の一人の和田義盛じゃよ。

なお、三浦党の源氏の関係についてはこちらの記事も読んでいただきたい。

衣笠城合戦と父・義明の死

治承4年(1180)、源頼朝公が石橋山の戦いで挙兵すると、三浦氏はそれに呼応して決起する。驕る平家は久しからず。平家の評判がおちているこのとき、源氏所縁の三浦党としては当然の判断じゃろう。

三浦の次郎義澄・同十郎義連・大多和の三郎義久・子息義成・和田の太郎義盛・同次郎義茂・同三郎宗實・多々良の三郎重春・同四郎明宗・津久井の次郎義行以下、数輩の精兵を相率い、三浦を出て参向すと。【「吾妻鏡」(1180)治承4年8月22日の条】

しかし、悪天候のため三浦党は合戦に間に合わなかった。頼朝公にしてみれば、三浦の軍勢がまにあわなかったことは、かなりの誤算であったじゃろう。三浦党も頼朝公の敗走を知ると、やむなく領地へ引き返すことにしたが、このとき鎌倉の由比ガ浜畠山重忠の軍勢と遭遇戦となった。

三浦も畠山も同じ東国武士じゃ。義澄の妹は畠山重忠の室じゃし、縁戚関係もある。そのため当初、戦は回避されるかと思われたが、遅れてやって来てた和田義盛の弟・義茂が事情を知らずに畠山勢に討ちかかり、けっきょく合戦となってしまった(小壺坂合戦、小坪合戦)。

その後、三浦軍は本拠の衣笠城に戻ったが、畠山重忠河越重頼江戸重長の加勢を受けて再び攻め込んできた。これが衣笠城合戦じゃ。

89歳の老齢であった当主・三浦義明は、義澄らに衣笠城を脱出し、頼朝公と合流するよう命じ、自らは城に残って討死した。「吾妻鏡」にはこのときの義明の言葉が記されている。

吾源家累代の家人として、幸いその貴種再興の代に逢うなり。盍ぞこれを喜ばざらんや。保つ所すでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめんと。

この義明の忠義は、のちの三浦党の繁栄を導くことになる。義澄らは「涕泣度を失う」が父の命に従い、その後、頼朝公一行と合流する。

住吉神社

住吉神社横須賀市久里浜

横須賀市久里浜にある住吉神社は、衣笠合戦のとき、三浦一党が戦勝祈願をしたとされる。また源頼家公の誕生を祝い、神馬を奉納したこと、源頼朝公が北条政子さまと参拝したことなどが記されている

三浦義澄の人物像~分別ある、度量の大きな坂東武者だった

房総半島で力をつけた頼朝は、その後、鎌倉に入り勢力を拡大していく。義澄も「三浦介」の呼称を与えられ、所領を安堵されている。

この頃、衣笠城で刃を交えた畠山重忠らが頼朝公に降ってきた。義澄にとっては父の仇ともいえる相手じゃ。

畠山の次郎重忠、長井の渡に参会す。河越の太郎重頼・江戸の太郎重長また参上す。 この輩三浦の介義明を討つ者なり。而るに義澄以下子息門葉、多く以て御共に候じ武功を励ます。重長等は、源家を射奉ると雖も、有勢の輩を抽賞せられざれば、縡成り難きか。忠直を存ぜば、更に憤りを貽すべからざるの旨、兼ねて以て三浦一党に仰せ含めらる。彼等異心無きの趣を申す。仍って各々相互に合眼し列座するものなり。 

秩父の大勢力を麾下に迎えるため、頼朝公は「忠義を尽くすためには恨みつらみをもってはいけない」と三浦一党をなだめる。義澄はこのときすでに齢50を超えた分別盛り。いまさら恨みを持ち出すこともなく、以後、畠山と三浦はともに頼朝公を支えていくこととなる。

その後、源氏は富士川の戦いで大勝利をおさめる。このとき頼朝公は潰走する平家軍を追尾して京に上ろうと考えた。京は頼朝公の生まれた地じゃしな。しかし、義澄はこれを諌止した。京に上るより、関東を固めよというのじゃ。頼朝公はこの助言を素直に聞き入れた。関東における自らの地位、坂東武者が何を望んでいるのかを、頼朝公はすぐにりかいしたんじゃな。

この頃、伊豆の豪族・伊藤祐親が捕らえれれた。祐親は頼朝公の敵となっただけでなく、以前、自身の娘と頼朝公の間にできた子を殺めた遺恨のある人物じゃ。

祐親は、義澄の正妻の父で、義父にあたる。義澄はその身柄を預かり、義澄は政子さまが懐妊という慶事にかこつけて、祐親を赦免するよう、頼朝公に求めた。義澄の進言ではいたしかたなし。頼朝公は遺恨を捨てて祐親を許すことにした。もっとも祐親は、この赦免を受け入れず自刃してしまうのじゃがな。

義澄のこうした逸話からは、その度量が大きな人間性を垣間見ることができるじゃろう。

三浦義澄の晩年~鎌倉の宿老として

かくして義澄は頼朝の重臣となり、平家追討、奥州合戦に参戦して武功を挙げていく。ちなみに、一の谷は鵯越で、三浦党の佐原義連がまっさきに坂落とし、その名をとどろかせている。義澄自身は範頼殿の軍勢に加わり、平家の退路を断ち、壇ノ浦の合戦では、水軍の先陣として大いに活躍した。

建久元年(1190)に頼朝が上洛したときには、右近衛大将拝賀の布衣侍7人の内に選ばれ、参院の供奉をした。さらに、これまでの勲功として頼朝公に御家人10人の成功推挙が与えられたが、その1人に義澄が選ばれ、義澄は子の義村に賞を譲っている。

義澄は元日に将軍が家臣に食事をふるまう「椀飯」の栄誉にも与っている。頼朝公の時代、は三浦義澄、千葉常胤、足利義兼らがかわるがわるこの役をつとめており、頼朝公の信頼の厚さが伺える。

建久3年(1192)7月26日、源頼朝公が征夷大将軍に任命されると、鶴岡八幡宮で、御家人らの羨望を集める中、義澄は勅使から除書を大役を仰せつかった。

義澄除書を捧持し、膝行してこれを進す。千万人の中に義澄この役に応ず。面目絶妙なり。亡父義明命を将軍に献りをはんぬ。その勲功髭を剪ると雖も没後に酬い難し。仍って子葉を抽賞せらる。 

あまたいる御家人の中から義澄が選ばれたのは、義明の恩に報いるためという頼朝公の粋な計らいというわけじゃ。かくして義澄は御家人筆頭の地位を諸国に広く知らしめたのじゃ。 

正治元年(1199年)、頼朝公没後は2代将軍・源頼家公を補佐する十三人の合議制の一人となる。翌年には梶原景時の鎌倉追放に加担したが、梶原一族が討たれた3日後に病没した。享年74。墓所薬王寺(現在の横須賀市、清雲寺)じゃよ。

なお、この後、三浦党は嫡男の義村が継ぐことになる。三浦党については、こちらの記事も読んでいただければ幸いじゃ。

「鎌倉殿の13人」で三浦義澄を演じる佐藤B作さんは、「13人のメンバーに入っている役ということで、とてもうれしいし緊張します。ただ、三谷くんから商店街のオヤジのように演じてくださいというアドバイスをいただきましたので、楽しんで演じられそうでワクワクしています」とコメントを寄せている。商店街のおやじって…どんな義澄じゃw

ちなみに嫡男の三浦義村を演じるのは山本耕史さん。イメージは合うなあ、これ。鎌倉幕府を支えた三浦義澄・義村父子がどう描かれるか。期待して待つことにしようぞ。