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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

三善康信のこと~鎌倉幕府の初代問注所執事

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の予習のため、13人を順番にまとめていく3人目は鎌倉幕府初代問注所執事・三善康信じゃ。大河で康信を演じるのは小林隆さん。三谷幸喜作品ではおなじみの役者さんじゃな。

鎌倉殿の13人

問注所とは

ところで「問注所」とは何じゃろうか。中学校の教科書でも出てきたと思うが、よく覚えていないという方のためにざっくりまとめておこう。

問注所とは、鎌倉幕府に設置された訴訟事務を所管する機関じゃ。 「問注」とは、訴訟の当事者双方から審問・対決させることで、その初代執事となった三善康信は、現代でいえば最高裁判所長官ということになるじゃろうか。武官ばかりの地方軍事政権ともいえる鎌倉幕府にとって、御家人の訴訟を的確迅速に処理していくことは急務であった。

『吾妻鏡』(10月20日条)によると、はじめ問注所は頼朝公の邸内(大倉幕府)の東西にある小さな建物のことだったという。

諸人訴論対決の事、俊兼・盛時等を相具し、且つはこれを召し決し、且つはその詞を注せしめ、沙汰を申すべきの由、大夫属入道善信(三善康信)に仰せらると。仍って御亭東面の廂二箇間を点じその所と為す。問注所と号し、額を打つと。 

その責任者に任命されたのが康信というわけじゃが、やはりそうとうな切れ者、事務屋であったことはまちがいない。ただし、荒くれ者の坂東武者の訴訟は、じつに骨が折れたでようじゃ。問注所には多数の訴人が集まって連日怒号が飛び交ったことから、頼朝公はうんざりしてしまい、その移転を命じたという。

問注所を郭外に建てらる。大夫属道善信を以て執事と為す。今日始めてその沙汰有り。これ故将軍の御時、営中に一所を点じ、訴論人を召し決せらるるの間、諸人群集し鼓騒を成し、無礼を現すの條、頗る狼藉の基たり。他所に於いてこの儀を行わるべきかの由、内々評議有るの処、熊谷と久下と境相論の事対決するの間、直実西侍に於いて鬢髪を除くの後、永く御所中の儀を停止せられ、善信の家を以てその所と為す。今また別郭を新造せらると。(『吾妻鏡』建久10年(1199)4月1日条)

頼朝公がかなわんと思ったのは、建久3年の「熊谷と久下と境相論」である。問注所に熊谷直実と久下直光が出頭したが、直実は口べたなため質問に上手く答えられない。いろいろ証拠をもってきても、これでは意味がないとついに癇癪を起こし、書類をぶん投げて座を立ってしまった。それでも腹の虫がおさまらない直実は、西の侍所に行って髻を切り、そのまま逐電してしまったという事件じゃ。

この事件をきっかけに、問注所は三善康信邸に移され、裁判が行われるようになった。まあ、一所懸命な鎌倉武士たちの争論である。さぞや騒々しかったんじゃろうよ。

問注所旧蹟碑

鎌倉・御成小学校付近に立つ問注所旧蹟碑

三善康信の出自と源頼朝との関係

三善康信は保延6年(1140年)の生まれ。出家後の法名は善信。もともと太政官の書記官役を世襲する中下級貴族であった。ただ、三善の家は算術を研究する家柄で、みな頭がよく、教養人だったようじゃ。そんなわけで康信の伯母は熱田大宮司季範に招かれ、頼朝公の乳母に召されたという。頼朝公と康信の信頼関係はここからはじまっているといえるじゃろう。

康信は流人として伊豆に流されていた頼朝公に月に3度、京都の情勢を知らせていたという。『吾妻鏡』(6月19日条)によれば、以仁王と源頼政が平家追討の兵をあげた後、康信は頼朝公に弟の康清を急ぎ遣わしている。

散位康信が使者北條に参着するなり。武衛(頼朝)閑所に於いて対面し給う。使者申して云く、去る月二十六日、高倉宮御事有るの後、彼の令旨を請けるの源氏等、皆以て追討せらるべきの旨、その沙汰有り。君は正統なり。殊に怖畏有るべきか。早く奥州方に遁れ給うべきの由存ずる所なりてえり。この康信母は、武衛の乳母妹なり。彼の好に依って、その志偏に源家に有り。山河を凌ぎ、毎月三箇度(一旬各一度)使者を進し、洛中の子細を申す。而るに今源氏を追討せらるべき由の事、殊なる重事たるに依って、弟康清(所労と称し出仕を止む)を相語らい、着進する所なりと。 

康信は「諸国の源氏に追討の沙汰が出た。あなたは源氏の嫡流だからすぐに奥州に逃げるように」と身の危険を知らせた。このとき康信がもたらした情報が、頼朝公の背中を押したというわけじゃな。

源頼朝公配流の地 蛭ケ小島

源頼朝公配流の地 蛭ケ小島碑(静岡県伊豆の国市)

三善康信の鎌倉下向 

康信が頼朝公から鎌倉に呼ばれたのは元暦元年(1184年)4月のこと。鶴岡八幡宮の廻廊で対面し、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼され、これを承諾したという。『吾妻鏡』にはこう記されている。

4月14日 壬午
源民部大夫光行・中宮大夫属入道善信(俗名康信)等、京都より参着す。光行は、豊前の前司光季平家に属くの間、これを申し宥めんが為なり。善信は、本よりその志関東に在り。仍って連々恩喚有るが故なり。

4月15日 癸未   
武衛(頼朝)鶴岡に参り給う。御供を奉らるの後、廻廊に於いて属入道善信に対面し給う。当所に参住せしめ、武家の政務を補佐すべきの由、厳密の御約諾に及ぶと。時に光行彼の所に推参するの間、言談を止めらると。善信は甚だ穏便の者なり。同道の仁、頗る無法の気有るかの由、内々仰せらると。

康信ははじめから頼朝公に心を寄せていたため、何の迷いもなかったとある。

ちなみに一緒にやって来た源光行は源氏物語の大家である。このとき、光行は平家に味方した父・光季の助命嘆願にやってきたとある。ただ、鶴岡八幡宮で頼朝公と康信が大事な話をしているところに勝手にのこのこやってきて、話を止めてしまい、すこぶる無法なやつとひんしゅくを買ったようじゃ。それでも光行は、後に政所別当になっているから、文官としての才はあったんじゃろう。承久の乱では後鳥羽院についてしまったが、けっきょく許され、後に北条泰時公の命で和歌所・学問所などを設置している。

話は逸れたが、要はこの頃、頼朝公は事務に明るい文官を求めていた。坂東の武者は脳筋ばかりじゃからな。大江広元、中原親能、源光行、そして三善康信と、日本初の武家政権を確立するため、有能な官僚を集め、鎌倉の行政組織を作り上げていったというわけじゃ。

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

十三人の合議制、承久の乱

問注所執事として御家人の訴訟事務に忙殺されていた康信は、幕府に欠かせぬ人材となる。さらに京の故実にも詳しく、大江広元らとともに朝廷と鎌倉の調整役として、頼朝公を補佐した。また、奥州合戦や頼朝公上洛のときには、鎌倉の留守を沙汰している。

そうした実績もあり、頼朝公没後、宿老たちが2代将軍・源頼家公に反発して十三人の合議制を敷いたときには、康信もこれに名を連ねている。 

承久の乱がおこると、康信は病身をおして大江広元とともに主戦論を述べ、義時公や政子殿に即時出兵を促している。この判断が功を奏し、幕府軍は宮方を圧倒し、鎌倉幕府は危急存亡の秋を乗り切るのじゃ。

承久3年(1221) 正月6日、康信は問注所執事を息子の康俊に譲る。そして8月9日に卒去。以後、問注所執事は康信の流れがつぎ、その子孫は鎌倉幕府引付衆、さらには室町幕府奉行衆として活躍する。

なお、戦国時代に大友宗麟に仕えた猛将・問註所統景は三善氏の末裔である。

三善康信についてはもちろん、大江広元や中原親能にもいえることは……やはり「芸は身を助ける」じゃろうな。体育会系ばかりの鎌倉では、京で学んだ康信ら有能な官吏の存在は頼朝公にとって、さぞ心強かったじゃろう。そもそも頼朝公自身は武人とはいえ、お育ちのよい京都人じゃ。とつぜんキレる熊谷直実などより、ほんとうはウマが合ったのかもしれぬな。