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うつつなき太守(なりきりです)による歴ヲタの備忘録

スクープ!源頼家による安達景盛側室横恋慕&強奪事件の顛末

蹴鞠にうつつをぬかし、政治をほったらかしにしたなど、なにかと評判がよろしくない2代将軍源頼家公。その理由によく出てくるのが、土地をめぐる訴訟で「領地の多い少ないは運しだいだから、ごちゃごちゃいうな!」と絵図に一本線を引いた話じゃが(『吾妻鏡』の創作説あり)、ほかにも安達景盛の側室横恋慕&強奪事件というのがあるぞ。

源頼家

源頼家

源頼家安達景盛が留守中に女を強奪

父・頼朝公も亀の前事件など、女性をめぐるおもしろトラブルはあったが、頼家公のこの事件はなかなかにすさまじい。

正治元年(1199)7月10日、「十三人の合議制」がはじまり、頼家公の親裁が停止されてからほどなくのこと。三河国からの伝令から、室平四郎重広という賊が暴れまわっているという報せが入った。

そこで、安達景盛が鎮圧に向かうことになったのじゃが、景盛はどうも乗り気ではなかった。

安達弥九郎景盛使節として参川の国に進発す。重廣が横法を糺断せんが為なり。景盛日来頻りに以て使節を固辞す。これ若しくは去る春の比、京都より招き下す所の好女、片時の別離を愁うが故かと。而るに参河の国すでに父の奉行国たるの上は、遁避に所無きの旨その沙汰有り。遂に以て首途すと(『吾妻鏡正治元年7月10日条)。 

景盛は情けないことに、京都から迎えたばかりの女と離れたくなかったというのが理由らしい。とはいえ、三河国は父の景長が治めているわけではそうもいかない。しぶしぶ出発したらしい。

そして事件が起こる。7月20日、明け方の鐘のなる頃、頼家公は中野能成に命じて無理やりに景盛の女を連れ出し、小笠原長経の家に監禁してしまったのじゃ。

頼家公は前々からこの女をねらっていて、何度も艶文を出していたが、色よい返事はもらえなかった。そこで、今がチャンス!とばかり力業に出たというわけじゃ。

「これ御寵愛甚だしき故なり」とあるように、頼家公のこの女の可愛がり方は異常なほど激しかったらしい。そして女を御所の北側の建物へ呼びよせ、小笠原長経、比企三郎、和田朝盛、中野能成、細野四郎の5人以外の来訪を禁じたのじゃ。

北条政子が頼家、景盛を仲裁

8月18日、景盛が三河国から帰ってくる。事の次第を聞いた景盛はさぞびっくりしたことじゃろう。そうした中、ゴマをすって人の悪口が好きな人はどこにでもいるようで、女を取られたことを景盛が恨みに思っていると、頼家公に讒言するものが出てきた。そこで頼家公は小笠原弥長経、和田朝盛、中野能成らに景盛の上意打ちを命じたのじゃ。

夜になると、小笠原長経は軍旗を掲げて、盛長入道蓮西の甘縄の屋敷へ討ち入る準備をはじめた。そのため鎌倉は騒然となった。

これを知った尼御台所政子殿は急いで盛長の屋敷に渡り、二階堂行光を使者として頼家公に諫言する。

幕下(頼朝)薨御の後幾程を歴ず。姫君(三幡)また早世し、悲歎一に非ざるの処、今闘戦を好まる。これ乱世の源なり。就中景盛はその寄せ有って、先人殊に憐愍せしめ給う。罪科を聞かしめ給わば、我早く尋ね成敗すべし。事を問わず誅戮を加えられば、定めて後悔を招かしめ給うか。もし猶追討せられべくんば、我先ずその箭に中たるべし(『吾妻鏡正治元年8月19日条)。 

「頼朝公が薨去し、三幡も亡くなりみなが悲嘆に暮れているなか、あなたは何をやっているのか。景盛を殺すというのなら、まず私に矢を向けてからにしなさい」

政子殿にそういわれては、頼家公も矛を治めぬわけにはいかない。かくして討ち入りは取りやめとなる。

まったく人騒がせな将軍様じゃ。ただ、大江広元は、「こんな女性問題は先例もある。白河院源仲宗の妻・祇園女御を院の御所へ連れこんで、仲宗は隠岐国島流しになっている」と、暗に将軍ならば許されると意見を述べたと、『吾妻鑑』にはある。頼家公もおそらく「俺は将軍、文句あるか!」という気持ちだったんじゃろう。

北条政子の諫言

その後、政子殿は、景盛を呼んで誓約書を頼家公に出すことを命じている。一旦は頼家公の強行な行為を止めることができたが、自分は年寄りなので後日の恨み返しまで抑えきれないというのじゃ。そこで景盛に異心がないのであれば誓約書を認めよというのじゃ。

かくして政子殿がそれをとりつぐことになるのじゃが、このとき政子殿は頼家公に強く諫言している。

昨日景盛を誅せられんと擬すこと、粗忽の至り、不義甚だしきなり。凡そ当時の形勢を見奉るに、敢えて海内の守りに用い難し。政道に倦んで民愁を知らず、倡楼を娯しんで人の謗りを顧みざるが故なり。また召し仕う所は、更に賢哲の輩に非ず。多く邪侫の属たり。何ぞ況や源氏等は幕下の一族、北條は我が親戚なり。仍って先人頻りに芳情を施 され、常に座右に招かしめ給う。而るに今彼の輩等に於いては優賞無く、剰え皆実名を喚ばしめ給うの間、各々以て恨みを貽すの由その聞こえ有り。所詮事に於いて用意せしめ給わば、末代と雖も、濫吹の儀有るべからざるの旨、諷諫の御詞を盡くさると(『吾妻鏡正治元年8月20日条)。 

政子殿は今回の暴挙を一喝し、政道をほったらかし、周囲をゴマすりばかりで固めている頼家公を叱責した。そして、比企ばかりを優遇し、北条や他の御家人を蔑ろにし、御家人たちを実名で呼びつける(実名で呼ぶのは縁起が悪い)といった傲慢な態度を強く諫めたのじゃ。

ちなみにその後、この女がどうなったのかはわからない。たぶん返してもらえなかったんじゃろう。

安達景盛を心底恨んだ源頼家

政子殿の諫言にもかかわらず、その後も頼家公はゴマすり近習を傍らに、比企にべったりだったため、次第に御家人たちの支持を失っていった。その結果、建仁3年(1203)9月、頼家公が病床に臥せっている隙をついて、北条時政公が鮮やかなクーデターをおこし、比企一族は滅ぼされてしまう(比企能員の変)。そして、頼家公も将軍職を追われ、伊豆国修禅寺に幽閉されてしまうのじゃ。

ちなみに安達景盛の母、景長の妻は丹後内侍で、比企掃部允と比企尼の長女である。しかし、このとき景盛は比企ではなく北条に味方した。そのため、頼家公に代わって擁立された千幡様(源実朝公)の元服式に名を連ねる栄誉に浴している。

まあ、女を取られて辱めを受けた景盛にしてみれば当然のことなのじゃが、頼家公は比企の縁戚でありながらそれを裏切った景盛を深く恨んだらしい。幽閉先の伊豆から政子殿に送った書状には、景盛の身柄を引き渡して処分させてほしいと訴えている。 

左金吾禅室(頼家)、伊豆の国より御書を尼御台所並びに将軍家に進せらる。これ深山幽棲、今更徒然を忍び難し。日来召仕う所の近習の輩、参入を免されんと欲す。また安達右衛門の尉景盛に於いては、これを申請し、勘発を加うべきの旨これを載せらる。仍ってその沙汰あり。御所望の條々然るべからず。その上御書を通ぜらる事、向後停止せらるべきの趣、今日三浦兵衛の尉義村を以て御使いと為しこれを申し送らると(『吾妻鏡建仁3年11月6日条)。

暇だから以前のゴマすり近習をよこせ、安達景盛を処分させよと、一方的な内容は完全にスルーされた。それどころか、今後は手紙をよこすことも禁止するといわれてしまう始末。そして元久元年(1204)7月18日、頼家公は北条の刺客により誅殺されてしまったのじゃ。

ということで、今回は頼家による安達景盛側室強奪事件をスクープしたがいかがだったじゃろうか。身から出た錆、是非に及ばずといったところじゃと思うがな。なお、頼家公についてはこちらのブログも読んでいただければ幸いじゃ。

takatokihojo.hatenablog.com

なお、この事件を記している『吾妻鏡』はご存じのとおり、後世、北条が編纂を命じた幕府の公式記録である。そのため、頼家公の横暴をアピールし、北条と安達の正当性、絆の深さをアピールするための編纂者による曲筆とみる向きもあることは、書き添えておく。