鎌倉ではたらく太守のブログ

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玉虫左大夫のこと〜「仙台藩の坂本龍馬」と呼ばれた男の惜しむべき最期

仙台戊辰戦史所縁の地を歩いてみたシリーズその2は玉虫左大夫誼茂。玉虫は奥羽越列藩同盟を主導した仙台藩士じゃ。ユアスタ参戦の翌日、市内の保春院にお墓参りをしてきたので、備忘録を兼ねて玉虫左のことを書いておく。

玉虫左太夫

玉虫左太夫Wikipedia

政宗の母所縁の保春院に眠る玉虫左大夫

玉虫左太夫が眠る保春院は、伊達政宗の父・輝宗没後、母・義姫の法名「保春院殿花窓久栄尼大姉」に由来する寺院。その名をつけたのは政宗の師・虎哉宗乙禅師じゃ。寛永13年(1636)、義姫の十三回忌に、その菩提を弔うために創建されたという由緒あるお寺じゃ。

創建時の堂塔伽藍は広壮で、仙台七刹の一と称されていたらしい。じゃが、度重なる火災で焼失。幾度か再建されたものの、明治維新で藩主の庇護がなくなり、今に至っている。本堂には輝宗と義姫の位牌が安置されているらしい。わしが行ったときは本堂の周りは工事中で、近づけなかったけどな。

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本堂に向かって左、一般の檀家さんの墓地の中に玉虫左大夫の墓もあった。ふつうにお墓まいりに来られる方がいて、単なる歴ヲタのわしが入っていくのはが引けたが、せっかく鎌倉から来たんじゃし、手を合わせていくことにする。ちょっとわかりにくいが、玉虫家累代のお墓の隣に、明治2年と刻まれた左大夫のお墓があった。

筆まめが認められ渡米

さて玉虫左大夫のこと。玉虫は文政6年(1823)に仙台藩士・玉虫伸茂の末子として生まれた。玉虫家の当主は代々能吏だったようで、玉虫もまたその血を受け継いだんじゃろう。

玉虫は一男一女をもうけたが、妻に先立たれると思うところあってか脱藩。江戸で幕府儒官の大学頭林復齋に学び、やがてその私塾の塾長になったというから、やはり頭がよかったんじゃろう。頼山陽佐久間象山らと交流し、見識を磨いていく。その後は、仙台藩江戸上屋敷の学問所である順造館で監学をつとめている。

幕府による蝦夷地視察では、函館奉行・堀利煕に随行し、視察記「入北記」をまとめた。その内容はじつに仔細で、鋭い観察力と筆まめぶりが高い評価を受ける。その後、幕府が日米修好通商条約批准のために訪米使節団を派遣することになると、玉虫は新見豊前守正興の従者の一人として、ポーハタン号で太平洋を渡ることになる。

ポーハタン号

ポーハタン号(Wikipedia)

玉虫はそのときの見聞録「航米日録」を記しているが、その観察眼はじつに鋭い。たとえば、船将と乗組員の関係について、つぎのように記録している。

船将の前と雖共唯冠を脱するのみにて礼拝せず、尤平日船将士官の別なく上下相混じ、縦令水夫たり共敢えて船将を重んずる風更に見えず。船将も又威焔を張らず同輩の如し。

而して情交親密にして、事有れば各力を尽くして相救う事、凶有れば涙を垂れて悲嘆す。我国とは相反する事共なり。我国にては礼法厳にして、総主などには容易に拝謁するを得ず、恰も鬼神の如し、是に准じて少しく位ある者は大に威焔を張りて下を蔑視し、情交却て薄く、凶事ありと雖共悲嘆の色を見ず大に彼と異也。

如是にては万一緩急の節に至り誰か力を尽くすべきや、是昇平長く続きたる弊ならん、慨歎の至りなり。

然らば礼法厳にして情交薄からんよりは、寧ろ礼法薄く共情交厚きを取らんか予敢て夷俗を貴むに非ず、当今の事情を考え自ら知らるべし。 

「航米日録」には、政治、経済、社会から草木や動物に至るまで、じつに詳細な記録がなされているが、特に玉虫はワシントンで大統領にも会い、民主政治に強い衝撃を受けたようじゃ。身分でがんじがらめにされている日本も、いずれは民主主義に変わらなければならないと痛感したことじゃろう。

「航米日録」

「航米日録」(仙台市博物館所蔵)

玉虫は帰国後、「航米日録」を藩主伊達慶邦に献上した。ただ、自分の本音を記した第8巻だけは、あえて自分の手元に置いた。本人は人に見せるためのものではないとしているが、封建社会を壊す危険分子とみられることを恐れたのじゃろう。

その後は、自らの見聞を生かし、諸藩の探索係、大番士、藩校養賢堂指南統取を歴任する。そして玉虫は、門閥主義の藩内でも、その名を知られるようになるわけ。

また、玉虫は食塩製造の研究まで手を出している。気仙沼の浜辺に製塩場を建設しており、じつに好奇心旺盛な人だったんじゃな。もし玉虫が明治の世を生きていたら、政界であれ、財界であれ、大いに活躍したことじゃろう。

大盃ではなく小盞を

鳥羽伏見の戦い幕府軍が敗れると、東北にも戦雲が立ち込めはじめる。仙台藩は奥羽鎮撫総督を迎え入れ、会津庄内追討を命じられる。奥羽のことは奥羽で処理させようという新政府の腹じゃな。

じゃが、仙台藩内には会庄両藩に心を寄せる者は少なくなく、藩論は2つに割れた。そりゃあそうじゃろう。突然、余所者がやってきて「官軍だ!」「言うことを聞け!」と言われても「はい、そうですか」となるわけがない。

しかも長州の軍監・世良修蔵の傍若無人ぶりが、仙台藩士の神経を逆撫でした。薩長兵の間には「竹に雀を袋に入れて のちにでおいらのものとする」という俗謡が流行ると、その傲慢さに藩論は反薩長へと傾いていった。

戦を避けたい仙台藩米沢藩とともに会津に恭順を説いた。当時、藩をリードしたのは首席家老の但木土佐じゃ。おそらく但木には、東北の雄藩として薩長に政治的に対抗しようという意図もあったはず。幸か不幸か、そこで重用されたのが玉虫じゃった。

但木土佐

但木土佐(WIkipedia

会津藩は朝廷に楯突くつもりはないが、薩長に屈服することはしない「武備恭順」を藩の方針としていた。特に、鳥羽伏見の首謀者の首を差し出すことは断固拒絶しており、交渉は難航が予想された。そうした中で会津への使者となったのが玉虫だったんじゃ。

会津藩松平容保候に拝謁したときの玉虫の逸話が伝わっている。容保は玉虫が大の酒好きであることを知り、大盃をすすめた。すると玉虫はこれを受けず、「外臣大盃(大敗)を嫌う。請う、小盞(勝算)を賜え」と笑った。容保もまた大いに笑い、玉虫は長光の刀と定紋付木杯を賜った。

容保と接した玉虫は、会津に深く同情を寄せたことじゃろう。この時点で玉虫は、すでに薩長との戦いを決意していたのかもしれぬな。

奥羽越列藩同盟盟約書を起草

けっきょく世良修蔵仙台藩士によって斬殺され、新政府による奥羽鎮撫は失敗する。仙台藩奥羽越列藩同盟の盟主として戊辰戦争を戦うこととなる。玉虫は同盟成立のため奥羽諸藩を周旋し、但木の命により、同盟の盟約書を起草した。

一、大義を天下に述べることを目的とし、小節細行には拘泥しない
一、舟を同じうして海を渡るが如く、信を持ち、義を持って動く
一、不慮の急用ある時は、近隣諸藩が速やかに応援する
一、武力で弱者を犯してはならない。私を計り、利を営んではならない。機密を漏らし、同盟を離間してはならない
一、城堡を築造して糧食を運ぶのはやむを得ないが、みだりに百姓を使役してはならない
一、大事には列藩集議し、公平を旨とする
一、他国に通謀し、あるいは隣境に出兵した際は、同盟に連絡すること
一、罪なき者を殺すな。金穀を略奪するな。不義の者は厳罰に処す

この盟約書には玉虫のアメリカでの見聞が生きていると言われる。また、アメリ南北戦争になぞらえ、北方政権を志向したという見方もある。事実、列藩同盟は輪王寺宮を上野寛永寺から仙台藩に迎え、大義を掲げている。アメリカ公使ヴァン・ヴォールクンバーグは、「いまや日本には一人の大君に代わり、二人の帝がいる」とし、北方政権が有利とすら記している。

仙台騒擾により切腹

玉虫は軍務局議事応接頭取として手腕を振るう。じゃが、けっきょく列藩同盟は敗れ、同盟を主導した主戦派の但木土佐らは東京に幽閉された。

代わって執政に就いたのは、遠藤文七郎ら勤皇派じゃった。復権した勤皇派は藩内の戦争責任者を拘束し、断罪を求めた。「仙台騒擾」と呼ばれる内紛劇じゃが、玉虫もまた、戦犯として切腹を命じられている。

玉虫左太夫の墓

玉虫左太夫の墓(仙台市・保春院)

仙台藩が降伏を決めたとき、玉虫は榎本艦隊と合流しようと気仙沼に潜んだ。じゃが、榎本艦隊が寄港する前日に捕縛されてしまう。山本晃の『玉虫左太夫略伝』にはこうある。

本吉郡の製塩場に至り,製塩を集めて榎本等の船の気仙沼に寄航するを待ちしが、浅野某の家に潜匿せしも,弟子大和田(後高橋)甲蔵とともに十月十三日(明治元年気仙沼を発して志津川に至るや捕吏の認むる処となり,狼河原,佐沼,古川を経て仙台に着きしは同十七日。

榎本艦隊の到着は玉虫捕縛の翌日のこと。わずか1日が玉虫の命運を分けてしまった。もし箱館まで逃げられていたら、玉虫は明治政府で活躍したかもしれない。榎本武揚大鳥圭介、額兵隊の星恂太郎だって赦免されているんじゃからな。

玉虫と共に渡米した福沢諭吉は『福翁自伝』の中で「腹が立つ。意気地がないくせに酷なことをする」と、その死を惜しみ、憤りをみせている。「門閥は親の仇」と言い切った福沢には、実力で這い上がってきた玉虫に同志的な思いを抱いていたのかもしれぬな。ともかく、仙台藩は戦後処理まで後味が悪すぎた。

玉虫左大夫、享年47。「仙台藩坂本龍馬」と呼ばれた男の惜しむべき最期である。